全国的にはどうかは知らないが、やはり、一発台が大流行になったのは、三共のスーパーコンビの登場からであろう。

このスーパーコンビ、最初に登場した時は赤いセル盤で、Vチューリップも赤だった。大当たり中も、普通にぶっ込みで打っていた。
再度入賞して、パンクしても入れてくれていた。

同じく、小倉駅前の明治会館でたまに打っていた。
個人的には、飛び込んだ瞬間、クルーンでの玉の動き、後あの「静かな湖畔の〜」の音楽が大好きであった。
当初は設置も伸びず、大して流行って無かった感じであったが、しばらくして、緑のセル盤と緑のチューリップになって登場(今考えたら、増産)してからは、急速に設置が広がっていった。

しかも、右の飛び込み口を潰して、大当たり中に右打ちする事で、出玉速度も上がったのである。

1ボックス全てスーパーコンビで、あの音色があちこちから聞こえてくるのは爽快である。

この頃に知り合ったパチプロに、寝かせやジャンプ釘、風車の向きなどを教わった。

このスーパーコンビのヒットぐらいから、各メーカーの一発台が色々出てくるのである。

当時一発台で強かったメーカーはマルホンであった。
ついで、西陣、平和ぐらいであったが、自分の中では三共ナンバー1であった。

後に大一からマグナムと言う台が出た頃が最高潮の人気で、どこも定量4000発であったが、この頃から、大当たり後に先着5名限定でゴルフボールを引いて、赤だったら1万発、黒だったら2万発、白は定量などの、朝一の集客で過激なサービス合戦が始まりだした。

当然スロットより、マグナムを打ちに行く事が多くなった。
しかも必ず黒が引ける自信があった。
当時は抽選箱の作りが甘く、手を入れた隙間から斜めにボールの色が見えたものだった。

中には4万発などのホールや、打ち込み玉が全て出ますなどのホール(則松ジャンボ)があった。

が、規制がかかり、1〜2カ月で廃止になり、一発台も衰退の道を辿って行く。

スーパーコンビを打っていた頃、初めて代打ち軍団と言う存在を知った。

自分が良く打っていた城野駅裏のTAIYOと言うパチンコ屋で、どう見ても未成年を交えたヤンキー軍団が打っていた。
軍団と言っても、今と違いヤ○ザの代打ち軍団である。
親はMと言う、当時は誰でも知ってる有名なヤ○ザであった。
 
普通に打っていて、閉店後に換金して帰ろうとしたら駐車場に軍団が… 

「おい」突然声をかけられ、シバかれた。
そのまま、車に乗せられ軟禁…帰らせてもらえず、気付いたら軍団の一員に…

聞いたら、ほとんど強制で自分と同じ境遇が多かった。
皆んな地元で、家迄割れてるから、逃げるに逃げれないらしい。
辞めると言ったらボコボコにされる…

2日目は帰らせてくれたが、毎日行かないといけないらしい…

今考えたら、対処法はいろいろあったかもしれないが、当時は逃げるしか思いつかなかった。
仲の良い先輩に聞いても、あの人には関わりたくない、諦めるしかない…と言われる始末。

色々考えたが、地元では無いのをいい事に、逃げる事にした。
カバンに、服、下着などを詰め、早朝小倉駅の新幹線のホームへと向かうのだった。