「私が所属していたハーバード大学医学部の研究棟は、ボストン中心部から路面電車で西方へ十五分ほど移動したロングウッドとよばれる地域にあり、複数の病院とともにメディカルエリアを形づくっていた。近くには他の大学や高校などもあり、それらの建物群を花づなのように細い遊歩道が結んでいた。遊歩道に沿って水路と植栽があり、道はところどころで石橋によって水路と交差しては一方の岸から他方へ移行していた。後に知ったことだが、これはニューヨーク・マンハッタンのセントラルパークをデザインして『都市景観』という概念を作り出したF・L・オームステッドのランドスケープ計画で、ボストン市外を縁取る緑のネックレスと呼ばれる作品だった。」
「この遊歩道をたどると研究棟からほど近い場所に、イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館が建っていた。ボストンに生活するようになって数ヶ月、こぢんまりとして上品なこのベネチア風の白い建物の前を私は幾度となく通過した。美術館の名を刻んだプレートを横目で眺めながら、しかし中に入る機会をいつも逸していた。正確にいえば、当時の私は、ゆっくり絵を眺めるような気持ちをほとんど持つことができなかったのである。」
「深夜一時頃、美術館はボストン市警の制服に身を包んだ警官の急な来訪を受けた。驚いて対応した美術館の警備員に、警官はモニターのインターフォン越しに告げた。この美術館に賊が侵入したとの知らせを受けた。内部を調べさせてほしい、と。」
「侵入者の気配などまったくなかったが、彼は警官の緊迫した勢いに気圧されて扉を開錠した。確かにそこには警官が立っていた。その後警備員は、自分の死角に警官が回り込んだことに一瞬気づくのが遅れた。次の瞬間、警備員は縛り上げられていた。警官に扮装した犯人は階上の獲物に向かってまっすぐに進んだに違いない。彼は他の所蔵品には目もくれず、フェルメールの名画『合奏』の前に立った。」
「朝になって清掃員が来てはじめて犯行が発覚した。犯人は、この美術館が財政難のためにハイテク防犯装置を施していないことをあらかじめ調べていたのだろう。十分な計画を立て、チャンスを選び、実行して成功させた。全世界に散らばるフェルメールの限られた作品のうち『合奏』だけがいまだに行方不明である。」
本書の本来の趣旨とは外れたところが気になってしまった。