佐伯啓思「西欧近代を問い直す」その4 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「戦後日本の思想と社会科学の方向を決めるうえで決定的な役割を果たしたのは、象徴的にいえば、政治学者の丸山真男氏です。多少極端な言い方をすれば、戦後日本の社会科学の基本的な方向を決定したのは、丸山さんが戦後すぐの1946年に岩波の雑誌『世界』に発表した『超国家主義に論理と心理』と題する論文です。」


「丸山さんは、東大の政治思想史の研究者でした。徳川時代から明治の政治思想を中心とした思想史家ですね。しかし、丸山さんを一般的に有名にしているのは、戦後日本の、特に左翼進歩派といわれる人たちのオピニオンリーダーだったことです。もっと広く、日本の戦後思想の方向をほとんど決定づけてしまったという点でけわめて重要なのです。」


「1946年、まさしく戦後すぐに書かれた『超国家主義の論理と心理』という論文で、彼は次のようなことを主張しています。どうして日本はあの誤った侵略戦争を起こしたのか。それは、日本が独特の構造をもった『超国家主義』を生み出した点にある。では、日本独特の『超国家主義』の構造とは何か。それはまず第一に、日本では、西欧近代のような『中世国家』が実現されていなかった点にあるというのです。「中世国家』とは、政治権力があくまで法に基づく行政機構によって執行され、国家権力があくまで形式的で技術的な法機構に基づいている近代国家です。マックス・ウェーバーが述べた『合法的・合理的支配』です。」


「ところが日本では、この『中世国家』が実現されず、国家が、忠孝といった観念を持ち出して、国民の内面的価値である道徳を独占していた。その結果として、近代的人格や自立して個人の前提となるはずの、道徳や倫理の内面化が行われなかった。要するに、道徳や倫理を国家化してしまったために、自立した近代的個人ができなかった、というわけです。その結果、国家権力に抵抗する個人は成立せず、すべてが国家に呑み込まれてしまった。」


「そして、この国家的道徳を人格化したものが天皇です。ですから、結局、日本の『超国家主義』のゆがみの最大のポイントは天皇制ということになるでしょう。天皇制という奇妙な『前近代的なもの』を中心に据えた日本の国家主義は、『政治権力』と『精神的(倫理的)権威』を両方とも独占してしまったわけです。西欧の近代では、国家は政治権力を合法的に独占し、キリスト教が精神的・倫理的権威の拠り所となり、近代的個人はそれを内面化している。この意味で、日本は、まだ西欧並みの『近代国家』にはなっていない、ということになります。」


「すると、自立した個人が確立していない日本では、あらゆる価値が天皇との距離によって決められてしまいます。天皇が絶対的価値の体現者なのですから、天皇に近い者が、この価値序列のなかで権威をもちます。天皇の権威をカサに着るのです。こうして、自分の価値基準をもって自ら善悪を判断する自立した個人に代って、より上位の権威に依存する無責任な個人が出現します。簡単にいえば、天皇からの距離で人間のランクがついてしまうわけです。」


「そこで、上の者は下の者に対して、これは天皇の命令である、あるいは上官の命令であるという。下の者はそれを聞く。それを聞けばいいだけで、自分で判断する必要はない。上位の者も、これは自分の意思ではなく、より上位の者の意思であるという。これを最終的に突き詰めていくと、天皇に行き着いてしまうのですが、天皇は無問責の存在で責任を問えません。天皇が権威の源泉ですから、天皇の責任を問う者がいないわけですね。しかも、その時々の天皇は自己の意思をもつのではなく、『皇祖皇宗の遺訓』によって歴史的伝統に則って統治しているわけです。これが丸山さんのいう『日本の無責任体系』、あるいは『抑圧移譲の原則』というものです。」


「確かに東京裁判において、日本の戦犯は『自分は何も悪いことをしていない』という。『自分は与えられた仕事をしただけである。上から命ぜられたことをやっただけである。』という。誰も戦争を起こそうと思ったわけではない。ここには責任の自覚が全く欠けているということです。」


 ちょっと長いが意味が分かるまで引用した。