村上陽一郎「エリートたちの読書会」その4 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「古代ギリシャにおける哲学の歴史は、ソクラテスに始まるといってよいでしょう。ソクラテスは、書かれたものを一切残していません。私たちがソクラテスについて知るのは、弟子であるプラトンの書き残したものによってだけなのです。したがって、古代ギリシャの哲学は、文献的には、プラトンに始まる、と言っても過言ではありません。そしてその弟子であるアリストテレスの二人が、古代ギリシャ哲学の祖である、ということに、反対する人はいないでしょう。というのも、プラトンとアリストテレスは、師弟関係にありながら、提唱した哲学は、およそ対照的であり、極端に異なっていました。つまり、哲学の祖として二人を考えなければならない、ということは、両者の違いが大きいために、そこでの哲学なるものの幅を、極めて広いものにし、およそ可能な哲学的な考え方のすべてが、プラトンとアリストテレスという二つの極の間のどこかにある、とさえいえそうな事態が起こっています。ホワイトヘッドという哲学者は、『ヨーロッパの哲学の歴史は、プラトンへの夥しい注釈に他ならない』という意味のことを述べたことがあります。確かにアリストテレスの哲学も、すでにプラトンのそれへの注釈であるとみなせば、哲学の歴史のすべてをプラトンという原点に帰することもできるかもしれないでしょう。」


「さて、プラトンの哲学とアリストテレスのそれとの違いを、詳細に論じはじめたら、それだけで数冊の書物ができるでしょう。ここでは、大変大まかな括り方で、整理するしかありません。一言で、という非常に乱暴な概括をすれば、プラトンの哲学は『彼岸的』であり、アリストテレスの哲学は『此岸的』である、と区分けすることができるのではないでしょうか。つまりプラトンは、私たちが日常経験する世界とは別に、本来的に真なる世界があることを主張するのに対して、アリストテレスは、私たちの日常的経験の世界こそが、すべての真なるものの源である、と考えるのです。」