村上陽一郎「エリートたちの読書会」その2 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

 「教育プログラムとしての『グレート・ブックス』は、1920年代から30年代にかけて、コロンビア大学に発祥し、シカゴ大学が発展させたものをさしています。コロンビアの教授であったアースキンが1919年に始めたものが最初だといわれていますが、百冊のリストを示して、その中から選んだテクストを土台に、教室では、教授や講師の解説や説明はできるだけ抑制し、学生たちの開かれた対話を重ねる、という方法のカリキュラムでした。専門に傾きがちな大学の性格を考慮した、新しい『リベラル・アーツ』教育の出発でした。」


「『対話』という概念について、ハッチンスが、『(対話の文明)を求めて』という文章を書いていますので、その所論に少し触れてみましょう。

『急速に拡大する知識は、専門家と実験によって手に入れられたものである。専門化の成功は、専門主義、すなわち教養や人と人との交流を断ち切るという代価を払って、技術的訓練を志向する心理状態を導いた。あるいは、われわれの文明にとって最大の脅威は、無教養な専門家による脅威である。彼は、専門家であるという理由で敬意を払われる。彼の助言は、狭いながらも彼の専門性の高さの故に、専門でない分野についても耳を傾けられる。しかし、彼は他の分野のことは何も知らず、自分の専門分野との関係も知らない。彼は、したがって、自分の専門以外の分野においては、ほとんど愚鈍な子供と同じなのである。(日本アスペン研究書編集の『テクスト集』」


「『エグゼクティヴ・セミナー』への参加者は、『古典』と呼ぶべき作品からなるテクスト集を、予め渡され、その全てを読んでくることを求められます。たとえば、現在アメリカのアスペン研究所が行っているセミナーのテクストの一部を紹介します。

(古代)

 聖書の創世記

 ソクラテス「アンチゴネー」

 プラトン「共和国論」

 アリストテレス「二コマコス倫理学」

(ルナサンス期)

 マキアヴェッリ「君主論」

(啓蒙主義時代)

 ホッブス「レヴァイアサン」

 ロック「政治二論」

 ルソー「社会契約論」

 カント「法論」

 アメリカの独立宣言


「参加者は、第一にテクストとの対話を強いられるわけですが、続いて第二には、このセミナーの場で、異なった人々との間の対話を造らなければならないことになります。そこでは、自分とは異なる考え方や感じ方、テクストの受け取り方に出会います。そのことは、自分が、ある「特定の見方」でテクストと対応していたこと、別の見方が数々あり得ることを教えてくれるのです。これは、しばしば「目から鱗が落ちる」体験という表現で語られます。しかし、話はさらに先があります。人間は、日頃自分を外から見る機会が少なく、ともすれば自分の存在が、人間として普遍的なものだと思い込みがちです。この思い込みは、社会でなにがしかの経験を経、かつ組織のリーダー的な存在として活動している人にとっては、特にあてはまることです。しかし、自分の存在が、一種の選択に左右されている結果であり、自分もまた『もっと他のようであり得る』ことに気づくという体験は、人間として、極めて貴重なものだと思います。第二の対話を真剣に行えば行うほど、この第三の対話へと、必然的に導かれます。そして、このセミナーの参加者は例外なく、この三段階の貴重な対話という体験を得て、セミナーの終了を迎えるようです。」


 


 中谷巌の「不識塾」もリベラル・アーツ教育である。