田中康二「本居宣長」その3 | さかえの読書日記

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琴線に触れたことを残す備忘録です。

「(道を学ばんと心ざすともがらは、第一に漢意儒意を、清く濯ぎ去て、やまと魂をかたくする事を、要とすべし。)道を学ぼうと志を立てる人々は、第一に漢意儒意をきれいさっぱり洗い落として、大和魂の堅固にすることを肝要とする。『道』を学ぶことにより、『大和魂』を固め、『漢意(からごころ)』を洗い落とすことができるという。この大和魂と漢意とは宣長国学のキー・コンセプトであり、宣長の著作を読み解く上で必要なキー・ワードであった。」


「まず大和魂についてであるが、この用語の初出例は源氏物語・少女巻における光源氏の台詞である。源氏は夕霧の教育について、皇統の血筋であることを理由に特別待遇を受けることを潔しとせず、学識に裏付けられた実力で勝負することを指南する。そういった教育論の中に、次のような台詞がある。(なほ、才をもととしてこそ大和魂の世に用いらるる方も強う侍れめ)やはり、学問という基礎を十分に持ってはじめて、気働きが世間に認められる所もしっかりするでしょう。『才』はザエと読み、漢学の学識のことで『漢才』ともいう。この漢ざえを身につけてはじめて『大和魂』が世間に認められるというのであるから『大和魂』とは知恵や気働き、あるいは常識的な思慮分別などを意味すると考えるのが順当であろう。大和魂が大切であるが、それを十分に生かすには学問を身に付けなければならないと言っているのである。」


「『大和魂』の対概念として想定したのが『漢意』であった。宣長国学に『漢意』排斥という明確な方針を与えた。―学問をして『道』を知ろうとするならば、まず漢意をきれいさっぱり取り去らなくてならない。どんなに古書を読んでも、考えても、古代の精神は理解しがたく、古代の精神を理解しなくては、『道』というものは理解しがたいことなのである。日本人が天皇の御心をわが心として行動するのではなく、思い思いの賢ぶった心に従って行動することを『漢意』に取り憑かれた末路であると宣長は考えた。漢意とは、漢籍の賢しらによって蝕まれ、自己中心的にしか考えられない思考法をも示すようになる。」


 宣長の概念をつかむこと