ブッダボウルとは早い話が「菜食丼」というか
「ベジタリアン向けワンプレートディッシュ」。
ゆるーいベジタリアンの私の定番です。
現代風「精進料理」かな
思えば、日本にマクロビオティックと言う言葉が
ようやく入ってきた頃。
その当時は「マクロバイオテック」って言ってたんですけど、
玄米食べてるなんて言うと、変人扱いされたなー
今では健康食ですものねぇ・・・
時代も変わりました。
僧侶になって良かったことの中に、
「私のやりたかったことをやっていい」
と言うのがありまして、
実は私はかなり昔から、
変人扱いされてきて、
それが社会生活を営む上で
トラウマになっていたところがあります。
瞑想してるとか、マクロビやってるとか、
思想・哲学の本読んでるとか、
今で言うチャネリングできるとか、
暮らし方が浮世離れしてるとか、
エトセトラ、エトセトラ・・・
なんとか自分のスタイルを
社会に迎合させようと
必死にもがいて、
自分を殺して生きていました。
社会的には音楽家だったので、
結構派手に仕事ができていましたが、
本当の自分と乖離していたかもしれません。
無理して結婚して、
うまくいかなくて、
でもなんとかうまくやろうと
無理して、でも失敗しました。
でも「僧侶」は、
瞑想、当たり前!
修行、当たり前!
菜食、当たり前!
結婚、しなくていい!
仕事、最小限(本当はしなくていい)!
孤独、大歓迎!
エトセトラ、エトセトラ・・・・
なんと、
私の生きたい生き方そのものが
「僧侶」の一言で語り尽くせるのです
家の仏壇を片付けていた時、
ご先祖様の中に
「●●禅定尼」と書かれて
お一人で入られているお位牌を発見して、
雷に打たれたような衝撃を受けました。
私はこの方の生まれ変わりなんじゃないか?
とまで思うくらい、
何だか不思議な感覚でした。
私は「僧侶は生き方」だと思っています。
(「住職」は職業ですけどね)
だから私にとって、
「僧侶という生き方」は、
本当は私が生まれた時から
なりたかった生き方なんじゃないかなと
思うくらいです。
ちょっと専門的な話になりますが、
30代で修行していた頃、
私が目指すのは「小乗仏教」的な
生き方なのかなーと思いました。
黙々と一人で修行を続ける姿・・・です。
なのでもしかしたら、
そう言う状態に、
今後の人生で向かっていくのかもしれません。
最高最善