自分の世界観、価値観、夢、見える景色。
自分の中で沸き上がるもの、言葉、映像。
それを言葉にする
誰かに伝える
それをしていくことが何かの引き金になると。
この不思議な感覚。
それを伝えることを、
私は「しない」と決めてきた。
なぜかは振り返らない。
今はとにかく、放て、と言われているように思います。
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モノには想いが宿る。
日本は素敵な考えがあって、
付喪神という考えがある。
長年、大事にされてきたモノに神様が宿る。
想いを込めたモノに神様が宿る。
神木も、仏像も、刀や古い道具なども、今使っているスマホも。
それらは不思議な響きを発していて、ただのモノではないことを私たちは知っています。
それにはヒトの想いが伝わります。
ただ純粋に、その人の気持ちを宿し、与え続けます。
呪い(まじない)と呪い(のろい)。
同じ字を使うのは、根元が全く同じだから。
そこに宿るのはヒトの心。
祈りなのか、祝福なのか。
恨みなのか、怨念なのか。
違うのはただそこだけ。
一見、悪いものを発しているように思えるものも、もとを正せばヒトの心。
それを癒していくのもまた、ヒトの心。
どんなものも、心を返してくれていると感じます。
それは与えた想いと同じものを大きくして返してくれます。
その大きさは、そのモノの生きた年数や経験で変わってくるのでしょう。
時間が経てば経つ程、そのモノはよく向けられる波動に馴染んでいく。
それが優しいものであれと、思わずにはいられませんね。
ふと、神社やお寺さんのことを思い出しました。
日本は寺社仏閣を大切にする文化です。
ですが、願い事を伝えるとき、どんな気持ちでしょうか。
自分も、そして自分以外の人も豊かになるような願い事でしょうか。
時々、ああ悲しいな。
と、思う言動をされているかたを見かけます。
神様も仏様もそれを返してくれるだけです。
たぶん、今はまだ、良いものへと変換しています。
ただ、今後もそういうのが増えていくと…
皆さんが思う神様とは、違った何かになってしまうかもしれませんね。
神様や仏様の前では嘘もごまかしもききません。
ずっと、自分の振る舞いを見続けています。
誰よりも知っています。
そんな場所での心のあり方が、今の自分のあり方に繋がります。
言葉はあまり意味をなしません。
言葉に宿る響きが届きます。
私たちはずっと昔、言葉というものがありませんでしたから。
音の響きでコミュニケーションを取っていました。
その名残は、ずっと、思っているよりも深く、残っています。
神様や仏様というような存在は、そういったものを受け取っているように思います。
子供の時の私は、大人の言葉を言葉通りには受け取っていませんでした。
(こう、言ってるけど本当はこうだな)
と、その人の音の響きや雰囲気で感じとるものがありました。
それがとても嫌だったのです。
言葉を信じたくても、
信じられなくなってしまいましたから。
建前が上手になっていくことが大人と言われていたのかもしれません。
今、たくさんのヒトが、それぞれの受け取りかたで想いをキャッチしているように思います。
建前であること、本心でないことは薄々気がついてきています。
それならば、気持ちよく想いが伝えられたほうが信頼できますね。
そこに攻撃性は要りません。
攻撃しなくても、わかり合える日は近い。
例えわかり合えなくても、大丈夫な世界が、もうすぐそこにあるように思います。
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と、思い付くまま書きましたが…
所々なんでこんな言葉が出てきたのかわからないところもあります(笑)
そうですね…
物を大切にしたいと思ったのと、
自分の出す言葉や態度は、気を付けようと思いました。
言葉、しぐさ、表情に宿る…波動というものですかね。
その雄弁さは、身に染みて知ってますからね
言葉は大切にしてください。
私も大切にします。

そういえば先日、浪花のオムライスというものを食べました。
デミグラスソースとその上にどて煮が乗ったオムライス。
お味噌と醤油ベースの甘みのあるどて煮。
それで柔らかく煮込まれたお肉のほろっとしつつも噛み締めたときの旨味とデミグラスの香りがめちゃくちゃマッチしてました。
書いててお腹空いてきた…(笑)