10月4日(火)
なかなか すっきりしない天気
こんな風の 秋晴れが見れるのは
いつかしら

さて
いいかげん 終わらないと・・
いけませんね
そう
バケモノの子 考察
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一挙に 載せることに します
ここに載せている 考察は
あくまでも 私 個人の考えです
① まず、この物語りのテーマについてですが、 テーマは、親と子の問題 と 子どもの自立が中心なのではないでしょうか。主人公の少年、蓮こと九太は冒頭において天涯孤独の身となりますが、その後さまざまの体験を経て唯一の家族、実父に再会し、その絆を取り戻して人間社会へ復帰していきます。
その過程の中で一旦失ったものや穴があいてしまった心に取り戻すもの、その意味や葛藤。また、親は子にどのようにして寄り添ったらいいのか、対する親への子どもの想いも語られています。
② バケモノの子・・ということはどんな意味なのでしょうか。 物語り最後の場面、敗れた一郎彦に向って九太が「一郎彦、君は俺と同じだよ。バケモノに育てられたバケモノの子だ」というシーンがあります。この言葉は観る人によって様々な解釈があると思いますが、私は “九太も一郎彦も同じ心の中に穴が空いている存在だ” ということと、“実の親を失った存在である”ということで一緒なのであり、その親代わりをバケモノにしてもらったこと、 更には、その穴を埋めるのは自分の闇を越えていかなければならないことを訴えているように思いました。現実(人間の世界)と云う厳しい世界に戻るには、非現実世界であるバケモノの世界の中で十分力をつけなければならず、それには自分を見つめ直すことが重要になって来ます。また、
バケモノの世界は、九太自身の心の世界であり、内界でもあるのでしょう。内界で自分を見つめ直し、鍛え直し力をつけた九太は、現実と内界を行き来しながら自分の内側にあるものをしっかり見据えやがて揺らがぬ芯を持つ青年に成長していくのだと思います。
③ 登場人物たちの役割 : 主要な登場人物で云えば、熊徹と 百秋坊、多々良 この3人ですが
この3人は実は 九太の中にあるもの、人間全部にあるものだと私は考えます。 まず、熊徹ですが、彼は
九太の「未成熟な本体、子ども部分」であり、百秋坊は「母性、女性性」として寄り添い、多々良は「父性、男性性」として厳しい言葉で導きます。 熊徹は九太自身であり、互いの努力で成長したからこそ九太が窮地に陥った時、熊徹が“剣”となり九太の中に入ることが出来るのです。自己愛の強い熊徹が初めて誰かのために役立ちたいと願い、自らの意志で九太の中に入っていきたいと願うのです。それは熊徹が、それまでの自分の未成熟な否定的アイディンティティを淘汰し、肯定的アイディンティティに統合し、九太の心の基軸、芯になっていく、ということを示してるのではないかと思いました。
④ 剣の意味
剣、といえば面白いことがありましたね。 バケモノの世界での闘いでは、帯刀しても決して抜き身の剣は使わない、鞘から抜かない、が鉄則でした。“剣”とは元々武具であり 闘うための道具であり、相手を倒すために使われるものです。 強くなるためには剣の腕を上げなければなりません。けれど、最後のナレーションで百秋坊が「それから九太は渋天街を出て、二度と剣を持つことはなかった 」と言っています。 私はここに、“剣”に込められた特別の意味を感ぜずにはいられませんでした。つまり、物語の中の剣とは
その人の持つ『感情』 を現しているのだと思ったのです。
⑤ 失ったものと、獲得したもの
九太が最初に失ったのは親であり、家族です。 それをバケモノの世界という仮世
界の中で修復して、
現実の世界にみごとに復帰していくことが出来たのは、思春期に出会う真の異性の獲得があったからだと思います。 人間に必要な「男性性と女性性」という両性のバランス、それを後押ししたのが“楓”でした。
この両性のバランスを得ると、人間はしなやかになります。 九太もそうでした。ものごとの本質を見抜く
力が鋭く研ぎ澄まされていきます。九太は成人になる前の通過儀礼(イニシエーション)として 一郎彦の闇を鎮めることを為し、それは同時に、自己の確立「アイディンティティ」を獲得したことにもなるのです。
⑥ 「穴」と 「闇」
宗師初め猪王山たちがしきりに言っていた 「人間は心に闇を宿す」という言葉。
闇とは何か・・。 様々のことが考えられますが、この作品に限っては
『コンプレックス』 と
『自己喪失的 人間不信』だと
考えています。 胸の中に開く 「穴」 それは闇が原因であること。
暴走する一郎彦の「穴と闇」は同年代
だからこそ一郎彦の心の奥深くに眠っていた九太への 対抗心や嫉妬が
引き起こしているように思います
いずれも出自は人間であること、もちろん一郎彦は出自が人間だと知りませんが、人間であるからには
心の底に[影]という領域があること。そこにはコンプレックスという劣等意識というものがあることも見逃せません。 九太も冒頭 “大キライ” とつぶやく自分の影を見ます。そこには大人への強い不信があり、人間に対しての基本的信頼感が全くありません。怒りに呑み込まれ自分自身をも見失いかけます。そこで、
九太は、強くなること で乗り越えようとしました。 しかし強くなることの真の意味は力の強さではないことに気がつきます。自分1人で強くなるのではないこと、助け合って支え合い、認め合うことの大切さに気づいていきます。
⑧ 葛藤と 諦めない努力
九太も楓も様々の葛藤をしています。 自分はどうしたいのか、どういう生き方をしていきたいのか、 未来に何を見るのか、この自分への「問い」は とっても重要な問いかけになっていきます。
思春期の若者たちは、成人していく過程で悩み傷つき葛藤します。それでも前に進もうとする力 努力それこそが、人として成熟していく最も大事な要素となります。2人にはそれがありました。一郎彦は 戦いに敗れてしまいましたが、そこからがスタートとなるのです。家族の愛と、手首に巻かれた赤い糸が彼を導いてくれるのではないでしょうか。
⑨ 私たち大人の役割とは・・
この作品を観た人々には 様々の世代の人たちがいたと思われます。九太と同世代の人たち、若者と呼ばれる世代だけでなく、既に子育てをしている 大人と呼ばれる世代の人たちへも、子どもが発しているメッセージとしてこの作品を深く理解したいと思いました。 子育て中の人や、既に世代交代をしている年配の人たちが 等しく若者たちの葛藤や苦悩、その心情を垣間見ることで知り得ること。それを自分の叡智として蓄え、やがて出会う、自分にとって大切な若者たちの心に寄り添えるように・・。 そのための洞察として私の考察を役立てて頂けたらと思います。
最後まで 読んでくださった
みなさま
ありがとうございます



