幸いなことに戦後の日本は、労働力の天井も非常に高かっか。まず第一に、軍隊の解散と植民地の放棄で大量の労働力が追加された。第二に、農村から大勢の若者が都会に出て来た。そして第三に、一九六〇年代後半からは、いわゆる団塊の世代、終戦直後の一九四七年から五〇年の間に生まれた数多い世代が、高校や大学を卒業して会社に勤め出した。その一方では農業や家事の機械化・省力化が進んだことも重要だろう。農業と家事の労働生産性の向上が、家庭の主婦や家事手伝いの子女を労働市場に送り出したのである。

「三種の神器=三C=マイホーム」という新しい需要 経済に成長の善循環があり、資本と資源と労働力の供給が拡大するとなれば、次の問題は需要である。物財を生産しても売れなければ経済は成り立たない。幸い戦後の日本では、消費者に欲しい、買いたいと思わせるものが増え続けた。

時期別に見ると、まず一九五〇年代、敗戦の復興からいよいよ経済成長に入ろうという時に出てきたのが、「三種の神器」といわれた白黒テレビと電気冷蔵庫と電気洗濯機である。「三種の神器」は発売当初、いずれも値段が高かった。テレビも発売当初の一九五〇年代初めの頃は、一般の新人社員の給料の五十ヵ月分にも相当した。しかし、これが普及していくにつれ、大量生産が行われるようになって値段が下がった。

この結果、五〇年代後半になると、みんなが一生懸命働いて一日も早くテレビと冷蔵庫と洗濯機を手に入れようとするようになった。「三種の神器」の出現と宣伝は、需要の拡大とともに、勤労意欲の向上にも役立った。一九六〇年代末になると、これが「三C」に引き継がれる。カラーテレビ、クーラー、(マイ)カーだ。六〇年代後半には、この三つを揃えたい、というのが国民の願いとなった。

そして一九七〇年代になると、いよいよ住宅、いわゆるマイホームがブームになった。五〇年代、六〇年代はまだ住宅は貧弱で、地方から出て来て都市の会社や官庁に勤める人々は、企業の寮や社宅に住んだ。彼らの夢は、公団住宅の団地に入ることだった。六〇年代には「団地」という言葉にはモダンな魅力があり、団地生活は戦後文化の象徴でもあった。団地に住んで三Cを揃えるのが、一般国民の願いであり、日本的幸せの象徴とされたものだ。