戦艦陸奥と旧海軍あれこれ(3736記事目) | GAIYAの合縁奇縁

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日々の出来事や愛媛県内各地、隣県各地、旅した風景等ぼちぼち載せていきます(^-^)

活動してきた事等や旧海軍関連の事や体験者の皆様との交流等も載せていきます。



 

こんな話題見つけた👍



俺も14年前、旧海軍兵学校を初めて訪ねた際、陸奥の主砲塔は見学させて貰った😃👍


この時は広大な運動場を歩いて主砲塔近くまで行った👍


約50名の一般見学者と一緒に👍


陸奥と同型艦の長門の主砲弾


旧海軍の戦艦では世界最大の大和、武蔵に次ぐ大きさの口径40.6cm 主砲身18.8m


一般見学者の方に撮ってもろた👍


駆逐艦・梨の主砲として搭載されてた12.7cm高角砲


同・梨に搭載されてた九二式61cm4連装魚雷発射管


カッターか、懐かしいの〜😳

俺も鉛の付いた重い櫂でケツの皮が擦り剥けるまで漕がされたの〜😆💦

やけど競艇で負けた事無かった👍

旧海軍兵学校は後に二度訪ねた👍

その2回の見学では陸奥の主砲塔には近付けんかった😓

ここには教育参考館内に柱島から引き揚げられた陸奥の艦首にあった菊花紋章も展示されてる(館内撮影不可)。


教育参考館には貴重な品々が多数展示してあるが、中でもグッときたのは、ミッドウェー海戦で乗艦飛龍と運命を共にされ、形見に残された山口多聞少将の軍帽を見た時やった❗


中学の頃からミッドウェー海戦の事は知ってたから、少将の心中を思うと胸に来るものがあった😣

後の連合艦隊司令長官とも云われた逸材やったのに・・

悲劇の爆沈で1000名以上の乗組員が亡くなった戦艦陸奥😢

沈没地点の柱島に近い山口県の周防大島の伊保田に建立されてる陸奥記念館も過去3回訪ねた👍

ここには屋外に引き揚げられた陸奥の船体の一部や副砲、スクリュー等も展示されてる。

呉の大和ミュージアムの屋外にも陸奥の巨大な各パーツが展示されてる。


在りし日の戦艦陸奥

陸奥は戦前、我が愛媛の宇和島市にも寄港してる⚓

宇和島海軍航空隊(予科練)の若き隊員達をお世話してた海軍指定民家の息子だった故・河野藤夫さん(前列真ん中)は、幼少期に父に連れられ宇和島港に寄港した戦艦陸奥に乗せて頂いたそうだ😳👍


小2、中2の時には重巡・鳥海にも乗せて頂いたそうだ😳👍


宇和島港には重巡・利根も寄港したそうやが、利根は後部を飛行甲板に改造された状態の頃で軍極秘という事で乗せて貰えなかったと😥


陸奥、長門は戦前から国民に広く知られた日本が誇る有名な戦艦だった👍


本物は無理やが、陸奥よりデカかった大和の原寸大ロケセットにも3回行った😄👍

世界最大の艦載砲46cm主砲、砲身は20m超えの巨砲だった❗

故・八杉さんはその46cm主砲を発射するのに距離を測る艦橋上部の15m測距儀の配置だった。


俺の同級生の祖父は戦艦霧島の乗組員だった。


今治の友人(右)の祖父は・・


大和と共に沖縄海上特攻へ出撃し沈没した軽巡・矢矧の乗組員で戦死されてる。


佐世保を訪ねた際も呉同様、真っ先に海軍墓地へ慰霊に行った🙏






中学の修学旅行で宿泊した弓張岳観光ホテルがあった弓張岳


佐世保港を望む

大和の八杉んや駆逐艦・雪風のKさん(大洲市)に聞いた話を思い出して眺めてた😔

大和沈没後、重油の海を4時間漂流し、雪風に救助され佐世保へ帰還した八杉さん、佐世保港の入口の高後崎で満開の桜に涙したと・・🌸

戦闘開始より曇天により世界最大の46cm主砲が測距不能で一発も撃てなかった悔しさ、不沈を誇った大和が撃沈された悔しさ、多くの戦友、大好きだった上官の死、生き残った虚しさ、あらゆる想いがその桜を見て溢れ出たと・・🌸😢

雪風のKさんは、幸運艦・雪風は沖縄特攻でも寺内艦長の鬼神の操艦で降り注ぐ重油混じりの海水で自慢のカイゼル髭も垂れ下がりながらも、爆弾・魚雷を尽く回避し続けた👍

三田尻沖で出撃前に磯風と同じように煙突に菊水マークを描いて出撃しようとしたのを艦長の一声で消され、今回の海戦でも雪風は必ず還るからそのようなものは必要無いとの言葉通り、殆ど無傷で大和の生存者の多くを救助し佐世保へ無事に帰還出来たと。

しかし、佐世保へ着いて自身が配置に就いてた後部五番機銃の防弾板を見た時には、初めて生きてて良かったと思ったと・・😣

防弾板には米艦載機が撃った機銃弾が突き刺さってた❗

八杉さんにしろKさんにしろ、当時の話を何時間でも語ってくれた👍

そんなお二人ももう居ない😢

先日訪ねた紫電改展示館でも課長曰く、愛媛零戦搭乗員会も戦争を実際に体験された方々は尽く戦友の元へ逝かれ寂しいものになったと・・

確かにここ10年でも俺の親交あった戦争体験者の方々も殆ど逝ってしまわれた😢

仕方無い事やが、寂しいし残念じゃあ😣