「150年前の今日、坂本龍馬は愛媛県内にいた」。龍馬が脱藩する3カ月前です。
龍馬が脱藩したのは、文久2年(1862)3月24日です。その4ヵ月前、つまり文久元年11月から12月の年末までの間、龍馬は讃岐の丸亀藩から金毘羅道を西に下り、伊予路を歩き、宇和島まで行き、松山に帰り、松山から瀬戸内海を渡り、長州・萩に向かったのです。
これは、私の仮説です。私は間違いないと考えていますが、これを証する資料が後世に書かれた同時代人の伝記に見るしかないのです。
以前に龍馬と伊予・宇和島と言うことで、このブログにも書いた内容です。改めて、龍馬研究の資料で見る空白の2ヵ月間を私の仮説に基づいて、物語風に書いていきます。
まずこの時期についてです。時期は文久元年11月中旬から翌文久2年1月14日までの2ヵ月間です。この間の資料としてあるのが、坂本家の上役に当たる福岡家の御用日記にその記述がある。
①『福岡家御用日記』(『土佐維新史料』版)
「文久元年」一〇月九日
一、御預郷士坂本権平弟龍馬儀、剣術詮議之筋有之ニ付、讃州丸亀御中矢野市之丞[市之進]方江罷越申度、依之廿九日之日数御暇願出、取次方江差出候事、郷士牒ニ詳也。
一〇月一二日
一、去九日記通、御預郷士坂本権平弟龍馬儀、剣術詮議之筋有之、讃州丸亀江差遣申度願、昨一一日相済候旨、取次方より申来ル其段権平江申達之。
この文章の通り、龍馬は剣術詮議のため、讃岐・丸亀藩の矢野道場に行くと申し出ている。そしてその期間は29日間として、暇願いを出している。その後家を出て、丸亀にむかい、矢野道陽で半月ほど滞在している。そして丸亀藩矢野道場を拠点に過ごしたと思われる龍馬は、坂本権平にあて剣術詮議の延長の申請を願い、これを許されると安芸国坊砂へ瀬戸内海を渡ったとされている。これも「福岡家御用日記」に記述がある。
②『福岡家御用日記』(『土佐維新史料』版)
「文久元年」一一月一三日
一、御預郷士坂本権平願之趣、取次方より相済来候事。
[文久二年]二月廿四日
一、御預郷士坂本権平弟龍馬儀、去一一月讃州丸亀江剣術為詮議罷越居候処、詮議不相済候に付、彼地より芸州坊砂江立越詮議致度候間、今二月迄月延之願旧冬相済候に付、此度立川口入切手被仰付度趣を以差出、都合三通差出及其手首尾郷士牒之通也。
この①と②に続く龍馬の足取りを示す資料としては、長州藩の久坂玄瑞の『江月斎日乗 』に「一四日 翳、土州坂本龍馬、携武市[半平太]書簡来訪。托[松浦]松洞、夜前街の逆旅に宿せしむ」とある。
矢野道場を辞した後、長州・萩に久坂玄瑞を訪ねるまで、つまり11月初旬から翌年1月14日までの約2ヶ月間、龍馬はどこを通りどこに居たのか。足取りを示す認められた資料はない。一部には、大阪の土佐藩邸に来たとの記述も同志・望月清平の記録に見られるが、龍馬研究の大家平尾道雄氏はこれを否定している。
この間、坂本龍馬は丸亀から西に向かい、川之江、新居浜、西条、小松、松山、大洲そして宇和島まで行き、その後松山まで帰り、瀬戸内海を渡り、長州・萩まで行ったのである。
次回から丸亀藩に剣術詮議に向かうため、坂本龍馬が高知を出る時から、順を追って書いていきます。

