「別に怒ってないよ」

この言葉が出た瞬間、
僕はだいたい少しだけ身構えます。


怒っていない人は、
あまり「怒ってないよ」と言いません。

本当に気にしていない人は、
そこまで丁寧に気にしていない説明をしません。


その人は笑っていました。

声も穏やかです。

グラスを置く手つきも、
別に荒くはありません。


でも、
少しだけ早い。

話の終わりに、
ほんの少しだけ息が強い。


「いや、別にいいんだけどね」

いい。

と言うわりに、
三回目です。


「まあ、そういう人なんだなって思っただけ」

思っただけ。

と言うわりに、
目がまだそっちを見ています。


僕はにこっとして、
グラスを拭きます。


カウンターの下で、
一匹のエゴ犬がいました。

口元は笑っています。

姿勢もきれいです。

「怒ってませんけど」

という顔です。


でも、しっぽだけが爆発しています。

ぼわっ、と。

本人は、
しっぽを見ていません。


怒っているつもりはないのです。

たぶん本当に、
怒っているとは思っていません。


ただ、
ちょっと納得していない。

ちょっと引っかかっている。

ちょっとだけ、
相手の言い方が嫌だった。

ちょっとだけ、
自分が軽く扱われた気がした。

ちょっとだけ、
雑にされた気がした。


その「ちょっと」が、
犬のしっぽを爆発させています。


でも人間は、
その「ちょっと」を怒りとは呼びたがりません。

怒ってる人、になりたくないからです。

余裕のない人、になりたくない。

面倒な人、になりたくない。

器が小さい人、になりたくない。


だから言います。

「怒ってないよ」

犬はその横で、
しっぽを爆発させたまま座っています。


怒りというのは、
いつも吠えるとは限りません。

静かな顔で出ることがあります。

正論っぽい言い方で出ることがあります。

「別にいいけど」
の中に入ることがあります。

「そういう人なんだと思った」
の中に隠れることがあります。

「もう期待してないから」
の中で、
かなり元気に走っていることもあります。


犬は、
吠えていないから怒っていない、
というわけではありません。

しっぽだけ爆発している時があります。


僕はそれを見ています。

本人に、
「怒ってますよね」
とは言いません。

それを言った瞬間、
犬はさらに姿勢を正します。

「いや、だから怒ってないって」

そう言って、
しっぽの爆発だけが二倍になります。


だから僕は、
少し違うところを見るようにしています。

その人が、
何を守ろうとしているのか。

何を雑にされたと感じたのか。

どこを踏まれたのか。

怒りそのものより、
しっぽが爆発した理由の方を見ます。


たぶん、
そこには小さな訴えがあります。

ちゃんと聞いてほしかった。

軽く扱わないでほしかった。

後回しにしないでほしかった。


私の言葉を、
そんなふうに流さないでほしかった。

怒っているというより、
雑にされた場所が痛かった。


だから犬は爆発した。


でも、
「痛かった」と言うのは、
少し裸すぎる。

だから代わりに、

「怒ってないよ」

を着ます。


変な服です。

かなり薄いです。


しっぽ、全部出ています。

でも本人は、
ちゃんと隠せていると思っています。


ここが、かわいいです。

少し痛いけれど、
かなりかわいいです。


その人はまた言いました。

「もういいんですけどね」

僕は思います。


まだ終わってないですね。

犬、まだ座ってます。


でも、
それも言いません。

言葉にしないまま、
少しだけ場所を空けます。


その人が、
もう一度その話をしてもいい場所。

怒ってないふりをしながら、
少しずつ怒りに近づいていける場所。


「まあ、でも、あの言い方はちょっと嫌でしたね」


そこまで出たら、
犬のしっぽは少しだけ元に戻ります。

怒りを認めたから、
爆発が小さくなったのです。


怒りは、
認めた瞬間に大暴れするとは限りません。

むしろ、
認めない時の方が暴れます。

隠された犬は、
家具の裏で暴れます。

見つかった犬は、
少しだけこちらを見ます。


「あ、いたね」


それだけで、
しっぽの爆発が少し収まることがあります。


怒っている犬は、
悪い犬ではありません。

何かを守ろうとした犬です。

踏まれた場所を知らせようとした犬です。


これ以上そこに来ないで、
と体で言っていた犬です。

だから、
怒りをすぐに消さなくていい。


でも、
怒ってないことにし続けると、
犬は変なところで吠えます。

別の人に吠える。

別の話題で吠える。

数日後に急に吠える。


自分でも、
なぜ吠えたのかわからなくなる。


それなら、
しっぽが爆発した時に見た方が早い。


怒ってないよ。

そう言いながら、
しっぽがぼわっとなっている犬がいたら。

僕はたぶん、
じーっと観察してしまいます。


怒ってるね、
とは言わない。

ただ、
見なかったことにはしたくない。


あ、いるね。

そこ、
踏まれたんだね。