日本近現代史研究~⑥「第1次世界大戦とワシントン体制」 |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

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山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ

 
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今年は戦後70周年にあたります。総理談話が出される前に日本の近現代史をお勉強したいと思いまして、
またシリーズ記事を書いています。現代から遡っていくアプローチで連載しています。

日露戦争の勝利(1905年)によって明治維新以来の富国強兵はある程度目標を達し、日本は欧米と肩を並べる新興大国(東アジアの強国)になりました。が反面、欧米列強国にひどく警戒されるようにもなりました。参考→黄禍論(イエローペリル)

とりわけアメリカは露骨で、1906年以降、日本人移民を排斥するような動きにでます。

大隈 重信 内閣(第2次)】(1914年4月~1916年10月)

 ~ 1914年 ~ (大正3年)
6月: 第1次世界大戦の開始

第1次世界大戦では日本は連合国側でドイツに宣戦し山東半島の青島のドイツ権益地を攻撃占領。

空前の大戦好景気

日本は1914(大正3)年に11億円の債務があったのに、第一次大戦後は27億円の債権国に転じました。
膨大な債務は日露戦争そのものの戦費と戦争後の軍拡・国家経営のためですが、次回の記事にて。

 ~ 1915年 ~ (大正4年)
1月: 対華21カ条の要求

1912年に孫文が辛亥革命を起こしたのに、なんで支那国政府の総統が袁世凱なのかというと、孫文の革命は南京政府であり、北京の清朝の実力者だった袁世凱が北京政府(中華民国)の実権を握っていたからです。

孫文の革命は北京政府の掌握にまで達せず、失意の孫文は日本に亡命(1913~1916年)します。ふたたび国民党の南京政府が出来て、蒋介石が北伐を開始するのは、1926年になってからです。中華大陸は軍閥勢力による割拠状態でした。

ニ十一カ条要求は、第1次世界大戦の講和条約であるベルサイユ条約でも否定されず、ドイツが持っていた山東半島の権益も日本が引き継いだので、5.4運動という激しい抗日運動が起こります。

中国人の民族自決・列強国への抵抗の矛先が日本のみに向かうようになり、蒋介石の国民党勢力の支持拡大につながりました。また欧米列強国は日本の大陸進出に強い警戒感を持つようになりました。

寺内 正毅 内閣 】(1916年10月~1918年9月)
 ~ 1917年 ~ (大正6年)
3月 ロシア革命  4月 アメリカ参戦  11月 ドイツ降伏

 ~ 1918年 ~ (大正7年)
7月 米騒動  8月 シベリア出兵  11月 第1次世界大戦の終戦

ロシア革命の影響拡大を恐れた欧州の列強国の要請で日本はシベリアに出兵します。
義和団事変鎮圧後の北京議定書によりすべての列強国は北京に軍隊を駐留させていました。

第1次世界大戦の講和条約がパリで締結されたベルサイユ条約です。このパリ講和会議で日本は五大国のひとつになりました(英米仏伊日)。日本は世界に先駆けて人種差別撤廃の条項を国際連盟規約に盛り込むことを提案しましたが、英米豪の強い反対で実現しませんでした。

原 敬 内閣 】(1918年9月~1921年11月) 初の平民宰相~政党内閣
 ~ 1919年 ~ (大正8年)
1月 パリ講和会議  6月 ベルサイユ条約締結

 ~ 1920年 ~  (大正9年)
2月 尼港事件    3月 戦後恐慌

高橋 是清 内閣】(1921年11月~1922年6月)
 ~ 1921年 ~ (大正10年)
11月 原敬暗殺事件   12月 ワシントン会議開幕
ベルサイユ条約の体制のもと、国際連盟によって、第1次世界大戦後のアジア太平洋地域の秩序を話し合ったのが、ワシントン会議です。日本の進出を抑えるための中国大陸の権益の門戸開放と軍縮が大きなテーマでした。
この体制をワシントン体制といいます。

加藤 友三郎 内閣】(1922年6月~1923年8月)
 ~ 1922年 ~ (大正11年)
2月 ワシントン会議閉幕   7月 秘密裏に日本共産党結成

山本 権兵衛 内閣(第2次)】(1923年9月~1924年1月)
 ~ 1923年 ~ (大正12年)
9月 関東大震災

清浦 奎吾 内閣】(1924年1月~1924年6月)
 ~ 1924年 ~ (大正13年)
大正デモクラシー運動が高揚  アメリカで排日移民法が成立(新規移民は不可)

加藤 高明 内閣】(1924年6月~1926年1月)
 ~ 1925年 ~ (大正14年)
1月 日ソ基本条約締結~国交正常化
3月 ラジオ放送の開始 
   普通選挙法成立(25歳以上の男子全員)
4月 治安維持法成立~
社会主義・共産主義はダメ!

第1次世界大戦が民主主義(連合国)と専制主義(枢軸国)の戦いと評されたこともあり、日本でも大正デモクラシーという民主主義運動が展開されます。またロシア革命の影響で共産主義勢力も日本で産声をあげます。

普通選挙制度は大正デモクラシーの民主主義運動の反映でしたが、治安維持法は社会主義・共産主義勢力を抑え込むための施行でした。

日本の普通選挙制度は他の欧米先進国と比べてそれほど遅いものではありません。ちなみに女性参政権はニュージーランドが世界初(1893年)で、中国の普通選挙はなんちゃって普通選挙です。(共産党一党独裁のため)

 ~ 1926年 ~ (大正15年-昭和元年)
7月 蒋介石が北伐を開始。中国全土統一を目指し広東で挙兵。北へ進軍
12月 大正天皇崩御~昭和改元

若槻 禮次郎 内閣(第1次)】(1926年1月~1927年4月)
 ~ 1927年 ~ (昭和2年)
3月 金融恐慌  4月 南京事件(1927年)からの漢口事件  
1937年の南京事件(いわゆる南京大虐殺があったとされる事件)とは別の南京事件です。


これらの事件は蒋介石の北伐が開始されたことに起因します。

ワシントン体制下の九カ国条約の中国に対する内政不干渉を貫き過ぎた内閣と幣原外相は、この頃から軍部と対立するようになります。

この事件を背景にしたアメリカの映画が「砲艦サンパプロ(1966)」
←クリックで拡大します) 好きな映画(余談ですね)。

北へ進軍してくる蒋介石軍を恐れた日本は、山東半島の日本人居留区の同胞保護の目的として、三度にわたって山東半島へ出兵します。

のちの満州事変の火種がここにあります。蒋介石の北伐とのバッティングです。日本はやっとのことで日露戦争に勝ち、北の脅威を本土から遠ざける緩衝地帯として権益を手に入れた満州を手放すわけにはいかなかった。また多くの日本人が満州に入植・居留していました。この入植はアメリカが日本人移民を禁止したことと無関係ではありません。

清朝王朝が満州族だったことも皮肉です。満州は万里の長城の外であり、本来は中華の領域ではなかったのです。清朝王朝以降に中華王朝の領域だと考えるようになっていて、むろん蒋介石もそう考えていたでしょう。また蒋介石は中国人の民族主義の敵として列強国のなかで日本だけをとりわけ重視して敵愾心を煽りました。抗日は民衆を煽りやすかったのでしょうね。それは今の中華人民共和国も変わっていません。

6月 第1次山東出兵

田中 義一 内閣】(1927年4月~1929年7月)

4月 モラトリアムで金融恐慌沈静 5月 済南事件

 ~ 1928年 ~ (昭和3年)

4月 第2次山東出兵   5月 第3次山東出兵

6月 張作霖爆殺事件   8月 パリ不戦条約

張作霖の爆殺は関東軍のいち参謀による独断専行で、これをきっかけに満州を軍事占領し、日本寄りの新政権をつくるつもりでした。しかし、実力者の張作霖の後を継いだ息子の張学良は中国国民党に傾倒し、満州の中国人の間では抗日の気運が一層高まり、計画は大失敗となりました。

田中内閣はこの事件(満州某重大事件)の善後措置に失敗したため総辞職します。なぜ「某」なのかというと1945年以降まで犯人名が公開されなかったからです。軍人なので軍部が秘匿してムニャムニャ◎&?!としました。

浜口 雄幸 内閣】(1929年7月~1931年4月)

 ~ 1929年 ~ (昭和4年)

10月 世界恐慌~ウォール街で株価大暴落

この時代、三度の恐慌があったり米騒動や関東大震災があったりで暗い時代なのかな?と感じますが、そうではありません。資本主義が飛躍的に発展し、経済も発展、都市化と大衆化がすすんだ時代です。時代の先端をいくモボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)や大正ロマンはその象徴で、日本初の地下鉄も1927年に開業しています。

ラジオ放送の開始やジャーナリズムの発展もそうです。大手の新聞四紙の発行部数は各紙100万部を超え、月刊の雑誌も大発展(100万部を超える雑誌も!)、週刊誌もこの頃から刊行されるようになりました。

 ~ 1930年 ~ (昭和5年)

4月 ロンドン海軍軍縮条約

この条約の米英日の大型艦保有率は(10.10.6)と米英としてはかなり譲歩したものでしたが、海軍はこれを不服として、政府の統帥権干反と激しく批判します。統帥権について、『兵力量の決定』にまで拡大解釈したものです。
統帥権の部分について大日本帝国憲法(明治憲法)に重大な欠陥があったことが、軍部暴走の一因でした。
浜口内閣は反対論を押し切って天皇陛下によるロンドン海軍軍縮条約の批准を実現しますが、これがもとで11月に東京駅で国家主義団体の青年に狙撃され重傷を負い、翌年4月に内閣総辞職。浜口氏は8月に死去します。幣原喜重郎外相の協調外交は行き詰まりました。

以降、軍部は政府の統制を離れて勝手に動くようになっていき、1935年には『天皇機関説』も否定されます。
ときの岡田内閣は圧力に押され『国体明徴声明』を出して、政府も天皇機関説を否定しますが、美濃部博士の著書は発禁処分になり、岡田首相自身も翌年(1936年)にニ・ニ六事件で襲撃されます。(本人は隠れていて無事)

大日本帝国の立憲主義の理念は否定され、立憲政治は骨抜きにされ、軍部の暴走に歯止めが効かなくなっていきます。欧米列強の狡猾で老練な手管に翻弄される日本の外交に日本の民衆が失望していたのは事実で、軍部は一定の世論の支持を得ていました。だからこそ軍部は好き勝手ができた。「東京朝日」「大阪朝日」「大阪毎日」「東京日日(現・毎日)」の四大新聞もさかんにこういった世論を煽りました。そのほうが部数が売れるからです。

なかでもどうしようもないのがこういった連中です。
極左と極右がそれぞれ左と右にあまりに逝き過ぎてウラで出会って手を組んでしまった。
治安維持法で検挙された人の90%が転向し、官僚などに積極的に登用されたそうです。
ナチスやソ連のように反体制を処刑・粛清しなかったのですが、扱いをあやまりましたね。


懐柔策だったのでしょうが、こんな連中を信用して政府中枢に登用すべきではなかった。


『先の大戦について「深い反省」』

というのは、第1次大戦後のワシントン体制からの経過を包括的に捉えて、対米英開戦に踏み切らざるを得ない状況になってしまったことについて、省みることが重要であり、ある特定の文言を加えるか否かなんてのはまったくもってナンセンスな論議です。

初めてアメリカ合衆国議会の上下両院合同会議で行われる日本国首相の演説も、夏に発表される戦後70年談話も、過去の深い反省にもとづき、現代国際社会での日本の立場を明確にした、未来志向な内容になることをおおいに期待しております。

バンドン会議演説抜粋(外務省公式より) 70年談話のベースになるのでしょう。




~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~
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画像引用元

7枚目: 映画公式ポスター(日本版)
13枚目: テレビ朝日のニュース映像
14枚目《今年のバンドン会議(アジアアフリカ会議)の演説》演説全文はここをクリック(外務省公式)
上記以外: 詳説日本史研究(山川出版社) 398頁~436頁