【皇紀:第4章:最終回】皇紀元年が紀元前660年である理由 |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

 Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ


【毎年お正月に書いているシリーズ記事です。全4章完結 】

      第1章:今年は皇紀2672年ってのは恥ずかしいから公の場では言わないでほしい
      第2章:歴史教科書における‘古代日本の天皇’の記載について
      第3章:はじめて天皇号を使用した天皇は誰ですか?    

今年は皇紀2675年です。ようやくこのシリーズも最終回となりました。

明治維新より前は旧暦が使われていました。太陰暦です。ですので、皇紀元年の意図を知るために、太陰暦でどのように固有の年を表していたのか?説明いたします。

年齢早見表です↓
(2012年の手帳のモノなので現在は早見表として使えません。すんません。)

右下のところに十干(じっかん)十二支(じゅうにし)とあります。いわゆる干支(えと)、10と12を組み合わせてその年の名前を決めています。60年で一周します。還暦を祝うのは生まれ年の干支に戻るから。

いまでも名残はたくさんあります。1988年を見てください。この120年前が戊辰戦争です。1984年を見てください。この60年前に甲子園球場ができました。

1966年は丙午(ひのえうま)の年ですね。この年の生まれの女性は気性が激しいという迷信があります。よってこの年の出生が嫌われる傾向があり、その前後年生れの子供が多くなったりします。

10と12だから120なんじゃ??ちがいます。

10と12は2つずつずれます。全ての組み合わせを使うわけじゃないのです。数学的に10と12の最小公倍数は60と説明したほうが分かりやすいかも?

わたくしは算数・数学が苦手なので後者は分からんw

ほかにもその年は○○だ!というのが色々あるそうで、
甲子の年には、政令を革める(甲子革命説)。辛酉の年には、天命が革まる=帝王がかわる(辛酉革命説)、とあって平安時代以降はこの年に必ず改元したそうです。

明治以前、日本の元号はなにかあるたびにホイホイと変えていました。

 詳説日本史研究:59頁↓(クリックで拡大します)
神武天皇の即位年は辛酉の年にあたります。帝王がかわるとされている年です。

60年を一元(いちげん)とし、二十一元を一蔀(いちぼう)とする単位がありまして、神武天皇即位の年から一蔀(いちぼう).1260年が経ったのが、聖徳太子の時代-推古天皇の御代-601(推古9)年の辛酉の年ということです。

つまり601年を起点に1260年遡らせて設定した!

後段の中大兄皇子関与説は違うと思いますね。60年(一元)足す意味が分からない。

古事記・日本書紀の編纂を命じたのは天武天皇です。兄である中大兄皇子(天智天皇)を壬申の乱で打ち破って帝位につきました。

自らが滅ぼした天智関連の年を採用しないでしょう。
(661年の辛酉の年に斉明天皇は亡くなり、皇太子の中大兄は即位せず政務に就く。唐・新羅との戦い=2年後が白村江の戦いでそれどころではなかった)
そんな年を基準に遡らせて設定しますか?わざわざ一元足して?状況的にないなw

中大兄皇子の関与なら紀元前660年ではなく、紀元前600年の辛酉の年に設定したことでしょうよ。

なぜ1260年前を601(推古9)年の辛酉の年から設定したのか!?

《紀元前660と西暦601で1260年前となるのは、紀元0年が存在しないからです。計算間違いじゃないよw》
詳説日本史研究:49頁↓

推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の政権が造った国史(歴史書)がすでに有ったのです。この国史(現存してません)は、大化の改新で蘇我氏宗家(蝦夷・入鹿)が滅ぼされたときに焼失したそうですが、当時は焼け残りや写本もあったのでは!?なにより当時の皇族や官僚たちにその存在とその内容の記憶があったのでは!?と考えられます。

 それを古事記・日本書紀の編纂者たちが敬意と経緯を込めて採用したのでしょう。
 さらにその元本がこれ!☟、仏教伝来の頃(6世紀半ば)には存在していたらしい。

詳説日本史研究:36頁↓


仏教伝来の頃(552年と538年:2説あり)になにがあったのか!?

詳説日本史研究:46頁↓

(安閑天皇・宣化天皇と欽明天皇はみな継体天皇の子・前二人は同母で欽明は異母)

武烈天皇の死後、大和朝廷(ヤマト政権)が皇統の断絶という危機にあり、応神天皇(第15代)の5世孫なる人物を越前から連れてきて、即位させました。継体天皇(第26代)です。第2章で詳しく書いたとおりです。

継体天皇の皇統の正当性を確立するため、この時期に『帝記(大王の名・続き柄・宮の所在・妃と子の名・陵の所在)』をしっかりまとめたんじゃないかと、わたくしは推察します。強力な中央集権国家成立のため、大古から続く清く正しく美しい皇統の系図は必要でした。

皇統断絶の危機にあたり『応神天皇の御血筋ならば納得する』ということは、大和政権の中心豪族の祖先にあたる古の王の血筋かもしれないですね。継体天皇は容易に大和に入れなかったそうですが、それは『本当に血筋を引いた子孫なのか?』という疑問と『他の皇子を推す』という対立勢力の抵抗があったのではないでしょうか?

 《古代天皇の在位年数と年齢》クリックで拡大します。画像引用元⇒http://syoki-kaimei.blog.so-net.ne.jp/

神武・すいぜい・あんねい・いとく・こうしょう・こうあん・こうれい・こうげん・かいか・崇神・すいにん・けいこう・せいむ・ちゅうあい・応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略、、、。。。

    (とりあえず倭の五王あたりまで)

125代の天皇で『神』の字が使われているのは、神武・崇神・応神のみです、それと神功皇后。全て見たい人は宮内庁の公式(←クリックしてね)を参照ください。

 神武天皇と崇神天皇は応神天皇の偉業の御写しだとする説に自分は共感します。


     画像は宇佐神宮公式より  クリックで拡大します。 ⇒

宇佐神宮(大分県宇佐市)は全国の八幡宮の総本宮です。そして応神天皇が御祀りされている神社です。御祭神である八幡大神(応神天皇)は、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に示顕になったとされています。時代はピタリですね。

奈良時代に道鏡を皇位に就かせるか否かの神託を伺ったのも宇佐神宮です。平安時代になると、八幡総本宮をより近くに置きたい合理的な考えにより、宇佐神宮を勧請して京の都に近い石清水八幡宮が造営されました。朝廷にとって超権威のある神宮なんです。

宇佐神宮の御祭神は、応神天皇・比売大神(ひめ おおかみ)・神功皇后(応神の母)・の三神です。もちろん石清水八幡宮も同様です。比売大神(ひめ おおかみ)さまについては、卑弥呼同一説があります。三神の真ん中に祀られていますので。諸説あり。

卑弥呼と応神天皇を強い血縁(実の親子)として結び付けるために神功皇后が創作されたのでしょうね。そして卑弥呼が魏と交渉した時代(中華王朝側の記録に残っているので)に合わせるためにタイヘンなご長寿ということになったのでしょう。

卑弥呼の死後、「男王が就いたが国はおおいに乱れ、卑弥呼の血統の女性『台与(とよ))』を女王位に就けて乱れが治まった」と魏志倭人伝にありますから、応神天皇の血筋は『台与(とよ)』に繋がるのかもしれません。となると比売大神(ひめ おおかみ)=台与(とよ)になる。

宇佐神宮と出雲大社は現在でも二礼四拍手一拝で、旧い格式を守っています。

第2代から第9代までは欠史八代と言われ、現代の研究では非実在というのが有力な説です。また、11代からの、垂仁・景行・成務・仲哀・(神功皇后)の実在も疑問視する説が有力です。みなさん長生き過ぎますし。

むろん、学術研究ですので実在説もあります。決着はみていません。

ずいぶんと長い期間に渡る連載でしたが、これで終了。歴史好きのはしくれといたしましては、「飛鳥・大和・難波で掘ったらなんか出た~!歴史を覆す大発見!」みたいなのがあって、徐々に史実が明らかにされていくことを、切に希望いたします。




~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ 完 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~