八重の桜は歴史教科書に記載されているのか? |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

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山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ


詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。

注)幕末の部分はドラマのネタばれあり




















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317頁本文
新政府が徳川慶喜を政権に加えず、彼に対して、辞官納地を要求したことは旧幕臣や会津・桑名両藩士たちを著しく憤激させた。

いったん(筆者注:御所のある京都から)大坂に引きあげた慶喜は、1868(明治元)年1月、旧幕兵や会津・桑名の藩兵を率いて上京筆者注:上洛のこと・つまり京都へ上がること。江戸のことではありませんしようとし、これを迎え撃った薩長両藩を中心とする新政府軍との間に鳥羽・伏見の戦いがおこり、ここに戊辰戦争が始まった。

鳥羽・伏見の戦いで勝利を収めた新政府軍は、江戸へ引き上げた慶喜を追って征討の軍をおこし(筆者注:慶喜は鳥羽・伏見の戦いの最中に江戸へ逃亡しました)、各地で旧幕府側の勢力を打ち破り、江戸へ攻め上がった。

すでに戦意を失っていた慶喜は恭順の意を示し、同年4月新政府軍は戦うことなく江戸城を接収した(筆者注:いわゆる、江戸城無血開城)。

しかし、会津藩はなお新政府に抵抗する姿勢を示し、仙台藩など東北諸藩も奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結成して会津藩を支援した。新政府軍はこれを攻撃し、激戦の末、同年9月会津藩を降伏させて東北地方を平定した。

さらに翌1869(明治2)年5月には、旧幕府の海軍を率いて箱館(筆者注:いまの函館、タイプミスじゃないよ)の五稜郭に立てこもり抗戦を続けていた榎本武揚(えのもとたけあき)らも降伏し、ここに戊辰戦争は終わりを告げ、新政府のもとに国内の統一がひとまず達成された。


318頁参考:会津藩の明治維新

会津藩主松平容保(かたもり)は、1862(文久2)年幕府により京都守護職に任じられ、会津藩士を率いて上洛した筆者注:しつこいですが、京都へ上がることですよ。。そして配下の新鮮組などを使って尊王攘夷派・倒幕派の活動を取り締まるなと、京都の治安維持にあたった。

そのため幕府が倒れて新政府が成立すると、会津藩は目の敵にされ、容保(かたもり)は朝廷に謝罪したが赦されず、武力討伐を受ける羽目となった。

1868(明治元)年8月、会津鶴ヶ城に立てこもった会津藩士たちは、圧倒的に優勢な新政府軍の進攻を受けて戦いを開始した。

しかし、会津藩を支援していた奥羽越列藩同盟の諸藩はつぎつぎに新政府軍に降伏し、孤立無援となった会津藩も約1か月の激しい戦闘の末、同年9月、新政府軍の軍門に降った。

激烈な戦いのなかで、白虎隊の少年隊士(16~17歳)たちや藩士の家族の女性たちの集団自決など、多くの悲劇が生まれている。

8000人以上におよぶ戊辰戦争の死者のうち、ほぼ3分の1が会津藩の人々であった。

敗戦の結果、会津藩は28万石の領地を失ったが、翌1869(明治2)年11月、容保(かたもり)の子容大(かたはる)が下北半島の斗南(となみ)に領地を得て、再興を許された(筆者注:廃藩置県は1871-明治4年)。

斗南藩の領地は3万石といわれたが、大半は不毛の荒野で実高は7000石程度にすぎず、藩士たちの生活は苦しかった。

彼らのなかには、新天地を求めて北海道に渡って開拓に従事したり、アメリカに移民したものも少なくなかった。

また新政府は旧幕府側からも、すぐれた人材をしきりに登用したので、会津藩出身者のなかにも、新政府に入って外交官や軍人として、高い位についた者もあった。

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幕末から戊辰戦争終結までのところでは、彼女に関しての記述はありませんでした。

彼女は銃はとりましたが、戦闘を指揮したわけでもなく、戦後も生き残って昭和まで生きておられたので、『幕末のジャンヌ・タルク』という例えはいかがなものか?と思います。

本家フランスのジャンヌ(1412~1431)さんは、世界史の教科書にしっかりと記載されています。

火あぶりで処刑されちゃったし、死後名誉回復裁判もされたし、なんたってフランス内乱をおさめイギリス勢を追い出し100年戦争を終わらせたヒロインですから格が違います。

戊辰戦争後、山本八重さんは実兄の山本覚馬を頼って上洛し(←京都ね。覚馬を演じてるのは西島さんね)、(中略) のちに同志社大学を開校する新島襄さんと結婚し、云々となるわけなのですが、また教科書の記載に戻りましょう。



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329頁本文
一方、民間においても福沢諭吉(1834~1901)の慶応義塾新島襄(1843~90)の同志社などの私立大学が創設され、特色ある学風のもとに新しい時代にふさわしい人材の育成にあたった。

383頁本文また、日本人の信徒のなかからも、新島襄、内村鑑三、植村正久(1857~1925)、海老沢弾正(1856~1937)のようなすぐれたキリスト教思想家・教育者が現れて、とくに青年たちの心をとらえた。

385頁本文一方民間では、福沢諭吉の慶応義塾(1868)、新島襄の同志社英学校(1875)、大隈重信の東京専門学校(1882,のち早稲田大学)をはじめ、東京法学社(1879,のち法政大学)、明治法律大学(1881,のち明治大学)、英吉利法律学校(1885,のち中央大学)、関西法律学校(1886,のち関西大学)やキリスト教系のミッション=スクールなどの私立学校が発展し、官学とはやや異なった立場から、教育の普及に力を注ぎ、新しい時代にふさわしい新知識を身につけた多くの人材を世に送り出した。

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ご主人の新島襄さんに関する記述はありましたが、新島八重さんに関する記述はありませんでした。「元始、女性は実に太陽であった」で有名な平塚明(らいてう)の記載のところに「婦人運動」の絡みでないか?とも思いましたが・・・ないっ。

彼女は、日清戦争、日露戦争でスペンサー銃を○○○に持ち替えて篤志従軍してますが、この関連での記載もありませんでした。

というわけで、日本の高校の歴史教科書である『詳説日本史研究(山川出版社 2000年版)』には新島八重さんに関する記述はございません。

なので脚本の山本むつみさんは、明らかに史実では有り得ないことを除き、かなり自由に彼女を執筆されるのではないか?と思っています。「八重の桜」というドラマ全体になると、かなり歴史教科書に記載されている武分も描かないといけないので、ここは注視したいです。



~~おしまい~~<なるべくネタばれを抑えるって難しい。幕末のネタばれはいいよね?>




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