中華人民共和国は戦勝国なのか?? |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

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山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ

今日こんな記事を目にしました。
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http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120928-OYT1T00208.htm


詳説日本史研究(山川出版社 2000年版)
詳説世界史研究(山川出版社 2002年版) より書き起こし

実際のところどうなのか?調べてみましょう。
 ↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。一部カタカナ表記の固有名詞を一般的なものに筆者の判断で変更しました。
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詳説世界史472~473頁本文

蒋介石は抗日よりも中国共産党との内戦に全力をあげた。1932年5月、(中略)共産党支配下の解放区(ソビエト区ともいわれ福建省から江西省にまたがっている)に対して5回にわたる包囲攻撃をおこなった。

中国共産党は1931年、江西省の瑞金(ずいきん)に中華ソビエト共和国祖臨時政府を樹立していたが、当時の共産党の指導部はコミンテルンの派遣するソ連留学生たちで、その作戦の失敗もあって、紅軍は大打撃をうけた。

このため1934年10月、紅軍は根拠地瑞金を捨てて西から北へ移動した。このようにして丸1年の間「2万5000里(1万km)の長征(大西遷)」が企てられた。紅軍は長い苦難をへて、ついに1935年10月陝西省北部にたどりつき、延安を根拠地とする解放区を建設した。

この長征の途中の1935年1月、貴州省の遵義会議で共産党における毛沢東の指導権が確立した。同年8月、中国共産党は内戦の停止と抗日統一戦線の結成を呼びかける八・一宣言(抗日救国のために全同胞に告げる書)を発表した。

これは中国共産党の政策の一大転換であった。これは蒋介石の国民党をも含む広範な統一勢力の結集を呼びかけたものであって、「抗日」こそがすべてに優先する課題としたものである。

蒋介石はなお紅軍との戦いをあきらめず、張学良(張作霖の子。1901~)、楊虎城(1883~1949)の軍を華北に派遣して紅軍征伐を推し進めた。しかし紅軍との内戦よりも、抗日を重視する張学良は1936年12月、督戦のため西安に赴いた蒋介石を突如監禁するという西安事件をひきおこした。

結局コミンテルンの戦術の転換もあって、中国共産党の周恩来の仲介で、蒋介石は内戦の停止と抗日に同意して釈放された。この西安事件後、再び国共合作の動きが進み、翌年盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)を契機にして9月第2次国共合作が成立(抗日民族統一戦線)した。
(中略)
1937年7月7日、中国の北京郊外の盧溝橋周辺で日本の中国駐屯軍の演習中に盧溝橋事件が発生した。これは偶発的な事件であったが、和平交渉が失敗し、軍部の強硬派に押されて全面的な日中戦争が開始された。
(中略)
この日中戦争開始後、同年9月第2次国共合作が成立し、抗日民族統一戦線が結成され、紅軍は国民党と合体して八路軍として日本の侵略に抵抗する組織をつくりあげた。激しい中国の抵抗ののち、12月首都南京を日本軍は占領した。

(後略)
筆者注)
●紅軍は現在の人民解放軍の前身で、「中国工農紅軍」が正式名称。
●「第1次国共合作」は1924年に孫文と陳独秀のあいだで交わされたもので今回の記事とはあまり関係がありません。
●盧溝橋事件を契機とする日中の戦闘は当初「支那事変」第二次大戦後「日華事変」と呼ばれるようになったが、クレームをつけた国があって今日では「日中戦争」と呼ばれています。

当時の様子を著した図はこちらが分かりやすいと思います。
引用は武田邦彦氏のサイトより。画像だけの引用です。誤解のありませんように。
http://takedanet.com/2010/12/post_4823.html

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だいぶはしょりますので、関連性のある事項だけを箇条書きにします。
1937.11月 日独伊防共協定の成立(前年の日独防衛協定に伊が+参加)
1939.8月  独ソ不可侵条約の締結。世界がびっくり。いちばんショックだったのは日本
1939.9.1  ナチスドイツ軍、ポーランド侵攻。第二次世界大戦の開始
1940.9月 日独伊三国同盟の結成
1941.4月 日ソ中立条約の締結
1941.6.22 条約やぶりの独ソ戦開始。やぶったのはヒトラー
1941.12.8 真珠湾攻撃。日本が第二次世界大戦に参戦
1942.6月 ミッドウェー海戦

詳説世界史481頁本文

1943年1月、F.ルーズベルト・チャーチルの両首脳はカサブランカ会議をおこなって、枢軸国に対する無条件降伏の要求を決定した。

同年11月のイタリアの降伏直後、米英両首脳と蒋介石はエジプトのカイロで会談し(カイロ会談)、対日問題についてのカイロ宣言を発表して、日本が第一次世界大戦後奪取した太平洋上の全ての島をとりあげ、満州・台湾は中国に返還すること、朝鮮を独立させることを決定した。

また日本の無条件降伏も約した。

左から、蒋介石・F.ルーズベルト・W.チャーチル
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ついでその直後1943年11月、はじめてルーズベルト・チャーチル・スターリンはイランのテヘランで会談(テヘラン会談)をおこない、ドイツを降伏させるための第二戦線(連合軍のヨーロッパ本土上陸作戦)の形成などの作戦を決定した。

詳説日本史456頁本文
1945年2月には、ルーズベルト・チャーチル・スターリンの三巨頭によりヤルタ会談が開かれ、ドイツ降伏後の処理についてヤルタ協定が結ばれたが、その秘密協定としてアメリカの要求に応じて、ソ連がドイツ降伏後、2.3ヶ月後に、対日参戦することが極秘のうちに取り決められた。

(中略)
1945.5月 ベルリン陥落・ヒトラー自決・ドイツ降伏

 
1945年7月、ベルリン郊外のポツダムにトルーマン・チャーチル・スターリンの米英ソ三首脳がドイツ処理問題で会談し(ポツダム会談)、この機にアメリカは対日戦後処理と日本軍隊の無条件降伏を呼びかけることをイギリスに提案し、中国の蒋介石の同意を経て、7月26日、米・英・中3国の共同宣言(のちソ連も参加)の形でポツダム宣言を発した。

8月8日には、日本側が和平仲介者として望みを託していたソ連が、日ソ中立条約を侵犯して日本に宣戦を布告して、満州・南樺太・千島に侵入した。
(後略)


1945.8.6  広島に原子爆弾投下
1945.8.9 長崎に原子爆弾投下
1945.8.15 ポツダム宣言受諾・無条件降伏
1945.8.30 マッカ-サー厚木基地到着
1945.9.2  降伏文書の署名 (東京湾内・戦艦ミズーリ船上)

●8.15以降も2週間ほどソ連は日本を攻撃し続けてたらしいですよ。(これは教科書に載ってません)

●当時カイロ(エジプト)は英植民地。イランのパーレビ王朝はあったが、英軍とソ連軍が進駐していました。カスピ海に近いテヘランにはソ連軍常駐。当時パーレビ王朝は形骸化してました。

●ポツダム会談の主目的はヨーロッパの戦後を話し合うことであり、日本が受諾したポツダム宣言とは全く別物の「ポツダム協定」(戦後のヨーロッパ秩序の合意)を結ぶことがメインだった。蒋介石が呼ばれなかったのはこのためである。ソ連があとからというのは密約がばれないようにするためで対日参戦後にソ連も宣言に加わった。

詳説世界史493頁本文
1945年10月に重慶で毛沢東と蒋介石は双十協定を結び、内戦の回避と平和的統一に合意した。ついで、アメリカの仲介で46年1月停戦協定が成立し、・・・(中略・なんでそうなったかちゃんと書いてないので)・・・

 同年7月には全面的な国共内戦に突入した。

(中略)

人民解放軍と改称された中共軍は47年半ばから反攻にで、49年末までに中国全土を解放した。蒋介石は台湾に逃れ、ここで中華民国政府を維持した。1949年10月1日、毛沢東は北京で中華人民共和国の成立を宣言した。彼は国家主席に選ばれ首相には周恩来が就任した。
(後略)
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率直な感想

①ヒトラーもスターリンも条約を破ったのに、日本の鈴木貫太郎内閣はソ連を通じて終戦和平工作をしていたという。ヤルタの米ソの密約もそうだが、国家間の外交とはこういうエゲツナイことをニコニコしながら平気でやるということだ。日本人が苦手なのも無理はない。

②第二次大戦中、毛沢東はなにをしてたんだ?書いてないのだが。ずっと解放区とやらの延安に引き籠って解放活動してたのだろうか?紅軍だけ国民党に差し出して。

③国内の乱れを「抗日を口実に」まとめるのは毛沢東の発案なのか!
77年経った今でもちゃんとごりっぱに人民に継承されてるんですね。

④中華人民共和国の成立は1949年10月、第二次世界大戦の終結は1945年8月。そのときに存在さえしていない国家がなぜ戦勝国なのか私には分かりません。なぜ国連の常任理事国なのかも分かりません。

⑤日本の歴史教科書に事実は書いてあるのです。共同執筆なので分かりにくくなってますが書いてあります。高校の社会科の教師はちゃんと子供たちに教えてください。教師自身の思想信条を押し付けずに事実だけを教えて判断は生徒たちに任せてください。