朝鮮半島古代史研究⑥~「白村江の戦い」(はくすきのえ or はくそんこう) |  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪

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山川出版社刊 『詳説 世界史研究』『詳説 日本史研究』 の記述から、気になる史実を探訪しています。右サイドバーの目次からどうぞ

まずは
詳説世界史研究(山川出版社 2002年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。
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126頁本文朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が鼎立し、これに日本が進出を企てるという状況であった。中国に統一国家ができると、隋・唐ともに高句麗に遠征軍を送り、攻撃を加えたが、高句麗はよく持ちこたえた。

そこで、唐は新羅と結ぶこととし、百済(660)・高句麗(668)を次々と滅ぼした。なお663年に日本は百済の再建を目指して唐・新羅と白村江に戦うが唐軍の大勝に終わり、日本は半島経営から手を引くことになった。

この後、新羅は唐の勢力を半島から追放して、統一国家を樹立した(676)。新羅は都を金城(現在の慶州)におき、骨品制(こっぴんせい)という独特な貴族支配によって唐朝にならって官僚国家をつくり、仏教を奨励した。

126頁欄外
骨品制は新羅独特の身分制であり、王族(真骨)から平民の間に六頭品・五頭品・四頭品の中間層がある。

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詳説世界史研究での記述はたったこれだけです。

このページは『唐文化の波及と東アジア諸国』というくくりで、他に、日本・渤海・吐蕃(とばん)・南詔(なんしょう)・ベトナム(越南)の記述があり、日本についての文章がいちばん長かったりします。(笑)

引用した部分を執筆した学者さんがどういうタイプなのか?読めばすぐ分かると思いますが、スルーしておきます。古代史の記述に近・現代史の用語使ったらダメですよ。

さて、これだけの記述では詳しいことは全く分からないので ↓

詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし

 
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45頁本文朝鮮半島では、5世紀(400年代)にはいると、中国の北朝に朝貢を続けていた高句麗と、南朝に朝貢していた百済との間に、激しい抗争がおこった。475年には、高句麗は百済の王城である韓城を攻め落とし、百済王を殺すにいたった。

百済は、王城を南の熊津(くまなり or ゆうしん)に遷し、さらに538年には南方の扶余(ふよ)に遷都して半島南部の伽耶諸国に勢力を広げていった。
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画像を引用させていただいたのはこちらの方のサイトです。 ↓
http://www.k2.dion.ne.jp/~m_nishii/index02.html

この頃には、伽耶諸国の自立の動きもめざましく、ヤマト政権の伽耶諸国における勢力基盤はしだいに脅かされていき、512年には伽耶諸国西部の4県、513年にはさらに2県を百済の支配にゆだねた。

一方、6世紀(500年代)に入って急速に国家体制を固めていった新羅も、百済との抗争のなか、562年には残った伽耶諸国を併合するにいたり、ここにヤマト政権が保持していた半島南部の拠点は、完全に失われた。

49~50頁本文
倭国は、5世紀の倭の五王の遣使が途絶えて以来、中国との交渉が絶え、柵封体制から離脱していたが、ここに隋の中国統一と高句麗遠征という国際情勢をふまえ、新たな外交政策を定めることによって、対朝鮮(とくに新羅)関係を打開しようとした。

新羅征討軍が編成されたのは、600年、602年、623年の3回であるが(602年は派兵中止)、このうち、最初の新羅征討軍の派遣と第1次遣隋使の派遣とが、同じ年に行われたことの関連性に注目すべきであろう。『隋書』東夷伝倭国条は、600年の第1次遣隋使を記録している。

筆者・注) 607年の第2次遣隋使があの『日出ずる処の天子 書を日没する国の天子に致す。云々』です。

遣隋使がこれまでの卑弥呼や倭の五王の時代の倭国の外交と異なるのは、この時の倭国の大王が、中国の皇帝から柵封を受けなかったことである。倭国の支配者層は、中国の皇帝から独立した君主を戴くことを隋から認定されることによって、中国皇帝から柵封を受けている朝鮮半島諸国に対する優位性を確立しようとしたのである。

一方、608(推古天皇16)年、「無礼」な「蛮夷」の使節の帰国に際して、(隋の)煬帝が裴世清(はいせいせい、生没年不明)を国使として遣わしたのは、対戦中の高句麗が倭と結びつくのを恐れたためであろう。

画像はウイキペディアより
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53頁本文

中国では、618年に隋が滅び、唐(618~907)がおこった。(中略)貞観の治と呼ばれる最盛期を迎え、周辺諸国を圧迫していた。一方、朝鮮半島諸国では、あいかわらず権力集中が政治の眼目とされた。

百済では、641年、義慈王(?~660)がクーデターによって権力を掌握し、642年以降、新羅領に侵攻した。高句麗では、642年、宰相の泉蓋蘇文(せんがいそぶん ?~665)が国王と大臣以下の貴族を惨殺し、百済と結んで新羅領をうかがった。

新羅は唐に救援を求めたが、唐が要求した女王交代の採否をめぐって、647年に内乱状態になった。唐の太宗は644年から高句麗遠征にのり出したが、(以降略)

筆者・注) ヤマト政権もこの時代にクーデターはたびたびあったので、この部分の記述の仕方は『違和感』。

56~57頁本文
朝鮮半島では、655年、高句麗と百済が連合して、新羅に侵攻した。新羅は唐に救援を求め、唐の高宗は660(斉明天皇6)年、まず百済に出兵して、その都扶余をおとしいれ、義慈王(ぎじおう)は降伏した。

ここに百済は滅亡したが、各地に残っている遣臣たちは、百済の復興に立ちあがり、倭国に滞在していた義慈王の王子である豊璋(ほうしょう、生没年不明)を百済に送還することを要請してきた。
(中略)
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、倭国の力で百済を復興して、朝鮮半島における倭国の優位性を復活させようと考え、百済救済の大軍を派遣することに決めた。

画像は福岡県大野城市教育委員会のサイトより
http://www.city.onojo.fukuoka.jp/edu/kyoiku/rekishi/iseki/onojoato/sakimori.html
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661年、中大兄皇子は斉明天皇を奉じて筑紫に出兵し、斉明天皇の死後は、大王の位につかないまま、戦争指導を行った。662年に大軍を渡海させたが、翌663(天智天皇2年)、白村江の戦いにおいて唐・新羅の連合軍に大敗した。
(中略)

(敗戦後、中大兄皇子は)
国土の防衛に専念し、対馬・壱岐や九州北部に防人や烽(とぶひ=烽火台のろしだい)、筑紫に水城を築いた。

665年からは、筑紫・太宰の周辺や瀬戸内海沿岸から大和にかけて、大野城・基肄城・長門城・高安城などの朝鮮式山城を築城した。
(中略)

この間、唐・新羅連合軍は668年に高句麗を滅ぼしたものの,朝鮮半島支配をめぐって対立し、670年から戦争状態に入った(676年、新羅は唐の勢力を駆逐し半島を統一する)。

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今日の記事で引用した教科書の記述も分かりやすいので解説の必要はないと思います。

詳しくはウイキペディアでどうぞ。wikipedia.org/wiki/白村江の戦い

百済の王位継承者で百済復興の旗印に担ぎあげられるような王子が倭国に滞留していたところをみると、当時の国同士の力関係が推察できます。図を見れば分かりますが、日本が大敗した相手は唐であり新羅ではありません。

『柵封体制』は、教科書に書いてはあるのですが、ほぼ何の説明もないので読む対象の高校生にはさっぱり分からないと思います。太字じゃないので索引にも載っていません。

ただ、世界史の教科書より日本史の教科書のほうが分かりやすく書いてあるのも苦笑する話です。今回引用したところに書いてありますね。『柵封体制』について詳しくはこちらの過去記事をご覧ください。 ↓
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11132808855.html
日本の学校教育で「柵封体制」を教えないのは教育問題







半島史目次) http://ameblo.jp/egiihson/entry-11562567122.html
⑦~「遣唐使と統一新羅・渤海」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11361387041.html