まるで、遠くに星があるような感覚です。
願いの叶え方、という文章は。
遠くに星があるから、
いま、既に見えてる。
でも、手元には、ない。
私たちは、「所有」という概念を使って、
いま、その「お金」は世界にはあるけど、手元には無い。
いま、その「賞賛」はイメージの中で見えてはいるけど、まだ受けてはいない。
私が生きている世界は、「私」を取り除くと、
生きている世界、になります。
そこには、「私」がいないため、所有の概念はなくなります。
「私の」お金、というものは、なく、
ただ、お金がある、ということになります。
結果的に、「私の」借金というものもなくなり、借金と言う概念自体もなくなります。
願いの叶え方、ということからずいぶんとずれてしまいました。
願いを抱いたとき、私たちは、「まだそれは叶っていない」からこそ、願い、願望なのだと認識します。
「願い」という性質上、もう叶っていては困るのです。
たとえば、すっごく片思いしている人がいたとしましょう。
その人のことを想うと夜も眠れないほど、片思いな人です。
絶対に触れることも、会話することも、なにもできない・・・
そう思えば思うほど、私が思い描く現実から、その人は遠ざかっていきます。
でも、心のどこかでは、「触れたい」と切望していたりしますから、そのギャップがすごく苦しくなるのです。
その人に触れた時、どう思うでしょうか?
「やった!!!!!!!奇跡だ!!!!!」
と思うでしょう。
でも、本当は、あなたが「奇跡だ」と認識しただけです。
お父さんに触れることと同じレベルのものだったものを、「奇跡」と認識したに過ぎません。
片思いの時、
「不可能であればあるほど」燃えます。
でも、可能だと思った瞬間、覚めることもありますね。
「なんだ、簡単な相手だったんじゃん」
そういうとき、願望とはなんだったのか、が分かります。
自分で決めた「難しい」というハードル。
これは難しいだろう。
これは簡単だろう。
というハードル。
これは自分で決めたことなのに、
さも、
「世の中全員の人が難しいと思っているだろう」
と思えば思うほど、自分の中で、ハードルが上がる。
逆に、「世の中の人が簡単だ」と思ってることには興味がない。
当たり前だから。
願望・・・たとえば、いま1000万欲しい、と思った時に、
「1000万円なんて難しいよ」
と思う。
そう思うのは、なぜなのか。
そう思っているのはだれなのか。
そう思うことで、必死に1000万円を追いかけたいのはだれなのか。