20inchの自転車で...
名古屋市内の
@NAGOYA を 全数回った時...
主目的は...
名古屋市内の
藤原師長のゆかりの地を
撮影して回る事だった
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藤原師長
1179年(治承3年)平清盛により都を追われ
(治承三年の政変)
尾張国井戸田(名古屋市瑞穂区)に流罪となる
*
尾張国井戸田で
師長の身辺の世話をしたのが
村長横江氏の娘 槐女であった
師長と槐女は恋に落ちた
*
師長は謫居一年余の後
赦免され帰京することになる
*
都に帰るとき
槐女に形見として
守り本尊の薬師如来と
白菊の琵琶を残した
しかし
槐女は別れを悲しみ
身を投じた
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名古屋市から
少し外れるが...
清須市にも
師長由来の地が存在する
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小場塚弁財天 (市寸島社)
草で見にくいが...
師長ゆかり地である由来が
石碑に刻まれている
(碑文)
当社は市寸島社と稱し
市寸島比賣命を祀れる神社なり
古書に曰く
人皇八十代高倉院の御宇太政大臣
藤原師長公の守尊神にして
治承三年公平清盛のため
当國愛智郡井戸田に流され
蟄居中井戸田の豪族
横井左近之進時景の娘「かい」と知り合い
治承四年公許されて帰京の節
「かい」に琵琶と共に
守尊神を賜りたるを携持し同時に
四つ乃緒の しらべもたえて 三つ瀬川
しず美果てぬと君につたえよ
と歌を残して
当村の池へ投身せしを以つて
該地を琵琶塚と稱え右守尊神を勧請して
応安五年壬辰小祠を以つて
祀れり故に此の字を宮前と云う
又枇杷島の名も是より起りたりとも云へり
又当社を一名琵琶塚弁財天とも稱する
往古は智の神とし別けても難病に霊験あり
諸國より参詣する者頗る多く中には
拝殿に参籠する者ありと云う以前は
旧四月一日例祭なりしが
今は五月一日に之れを行う
小場塚のとある森の中に
入水自殺した槐娘の
なきがらを埋めた
宮前塚弁天があった
(1372年建立と伝わる)
それを 1965年に
有志の人々により
小場塚弁財天の境内に移し
その碑の前に
ひょうたん形の池を作った
入水自殺したから
池を作ったのか?
なんだか失礼な話だが...
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小場塚弁財天の
南隣の宮前公園内に
なぜか
小場塚弁財天の説明看板が
設置されている
一 由緒
創建の時期は不明である
太政大臣藤原師長と
尾張井戸田の豪族横江氏の娘との
悲恋伝承にちなんだ社である
『琵琶塚弁財天縁起』には
次のような話しが伝えられている
治承三年(一一七九)
平清盛のために尾張に流された
師長は横江氏の娘と知りあう
治承五年
罪を赦されて都に帰ることになり
別れを惜しんで土器野の里まで
ついてきた娘に
守り本尊の弁財天と愛用の琵琶を
形見に残した
娘は別れの悲しさのあまり
淵に身を投げて果てた
里人がこの娘を弔うため塚をたて
弁財天をまつった
この塚を姨塚といい村名の元にもなった
かつては小場塚弁財天として親しまれていたが
明治に入り市寸島社と称するようになった
祭神は市寸島比賣命である
一 社宝・他
・「琵琶塚弁財天縁起版木」
(町指定文化財第十号)
寛永七年(一八五四)
弁財天社再建にあたり
弁財天社の起こりを
したためたものである
・毎年五月第一日曜日に
大祭(弁天祭り)が行われる
清須市教育委員会
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つづく...
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撮影機材:PENTAX KP
+
SIGMA 10-20mm
F4-5.6 EX DC