笑顔の会 (東日本大震災の復旧を支援します) -133ページ目

第3次支援活動 人長さんの報告&感想

去る3月26日(土)~27日(日)にかけ、


第3次支援活動に参加した。


今回は、若林さん(スズカン)


岡田さん(蔵)人長(水九印刷)の3名で、


約800㎞先の被災地、女川を目指し


26日(土)の夜に四日市を出発した。


それほど交流深いわけではない3名でしたが、


何の違和感もなく3トントラックに横並びに座り、


ごあいさつから始まりお互いの仕事のことなど話しましたが、


四日市を出発した時点ですでに「少しでも早く女川へ!!」


3名とも見ている先は800㎞先のまだ見ぬ被災地でした。


さすがに宮城県は遠く感じた。東京を過ぎでまだ半分…。


でもあと半分と2時間のローテーションをしっかり守り、


交代で運転。眠くなるといけないので、食事などせずに


ひたすら被災地を目指しました。


福島に入ると、脳裏には“原発”“放射能”“被爆”の3文字が。


しかし東北道に入るなり、被災地に向かう緊急車両・自衛隊の


トラックなどが増え「我々だけではない!!」と勇気が出た。


東北道をひたすら北上、そして宮城県に入りいざ石巻を目指す。


高速を降りて一般道を東へいざ石巻へ。道には所々段差が出来ていて


トラックがよくジャンプしました。


そのたびに「人長さ~ん、頼むよ。」とお叱りを受けました。


道中、塀が崩れていたり、倒壊した家屋もあったが


被災地という実感はあまりなく、ガソリンスタンドの渋滞を


目の当たりにして被災地だと改めて実感。



先ずは指示通り伊原津に到着。


トマトやカップラーメン・牛乳・きゅうりなど高齢者を中心に


150世帯の集落全体への支援物資を届けた。


お届け先のお宅は見た目大きな損傷もなく


通常の暮らしができる状態に見えた。


もちろん電気・ガス・水道なないのだが・・・。


初めて接する被災者の方、想像よりも元気で笑顔もあり


逆にどう対処していいのか正直迷ってしまいまったが、


最終的には「頑張ってください!!」と笑顔でお別れできた。


続いて第二の目的地女川病院へ、


テレビで見ていた車がごろごろ転がって、重なって。


悲惨な被災地の様子が目に飛び込んできた。


道には津波で打ち上げられた魚が積み上げられ、


消毒剤で真っ白な山がいくつも出来ていた。


泥とがれき、ぐしゃぐしゃになった車を横に


若いお母さんと小さい娘さんが手をつないで


疲れた表情で歩いていた。


やはり間違いなくここは被災地だった。


そんな街を抜けると、巨大なマックスバリューが見えてきた。


たくさんの人がビニール袋に野菜をいれ買い物を済ませていた。


「もう買い物できるのか・・・」震災から2週間


不謹慎な印象かもしれないが正直そう思った。


しばらく進むと女川町へ。


そこは言葉では表現のできない光景が広がっていた。


私自身戦争を知らないが、戦後の焼け野原はこんな感じだったのか、


いやそれ以上かもしれない。テレビで見ていた風景なのに、


そのスケールは現地に立ってみないと実感できないものだった。


瓦礫の中を抜け第二の目的地、女川病院へ。


港の近くの高台にある病院だが、坂を上っていくと、


頂上付近にも津波で流された車が。病院の駐車場に着くと、


1階部分まで津波が押し寄せ、車がそこら中にゴロゴロしていた。


若林さんと岡田さんは病院内に入り、


現地の方と物資の受け渡しについて打ち合わせに、


僕は女川町の現状をカメラに収めるため高台から女川町を見下ろした。


そこには、生き物の生気を感じ取ることが一切できない、


無機質な街が広がっていた。


3階建てのビルの屋上には車が逆さになって乗っかっていた。


鉄筋コンクリートの建物も根元から折れ曲がり、


ここにどんな建造物があったのか想像もできないまさに壊滅。


高台から目にしたあの光景は一生忘れることは無いと思います。


女川病院のスタッフ・ボランティア(被災者だと思われる)方々は、


目にした光景とは想像もつかないほど、今ある現状をしっかり受け止め、


まっすぐ前を向き少しでも現状がよくなるようにと


その目は決して下を向くことは無かった。


裏にまわれば東北電力の発電車が病院の電力を補っていた。


病院の土手に打ち上げられた瓦礫の中から、


中学生ぐらいの女の子が何か使えそうなものを探していた、


たくましい。


結局、女川病院では支援物資は炭のみ受け取っていただけた。


いろいろにルールがあるようだ。


病院で物資の提供先を確認し、女川の避難所へ。


そこには自衛隊のキャンプもあり


女川の拠点になっているような避難所でした。


そこでは残りのすべての物資を受け入れてくれた。


カップラーメンをはじめ、お茶の葉やお米、


赤ちゃんの歩行器まで。


震災から2週間経過していたので、


断られる物資もあると覚悟はしていたが、


快く受け入れてくれた。正直「迷惑だったかな・・・」と思えもした。


が、荷卸しには自衛隊のみなさんが手伝ってくれた。


疲れているのだろうが、そんな様子を少しも見せず、


もくもくと物資を下してくれた。


いままで正直遠い存在と感じていた自衛隊のみなさんが身近に思え、


この人たちに僕たちの生活は守られている。


「ありがとう」と心の底から思えた。


そんな自衛隊のみなさんの横を、


視察で訪れてたであろう議員さんが一言もなしに立ち去って行った。


ここで物資を降ろし、再度女川病院へ向かい病院の方の連絡先と


今後の打ち合わせに。


途中、「ちょっといい」と若林さんが車を道路脇に止めて、


3人でもう一度改めて女川の惨状を見つめた。


少し前から降り始めた雪が普段ならキレイと思えるのだろうが、


ここにいる全員の体を冷やすただの冷たい白い塊にしか見えなかった。


道路には3月11日の朝食には使われたかもしれない


お茶碗がぽつんと一つだけ転がっていた。


女川病院で連絡先を確認したあと、僕たちは被災地を後にした。


途中、嫁が3人分と握ってくれたおにぎりが10個ほど残り、


被災地の方にとも考えたがこっそり渡せないと逆に


危険かと考えそのまま帰路についた。


帰り道、疲れと使命を果たした安堵感で


車内は比較的言葉少なだったが、


家族の待つ四日市に少しでも早く帰りたい、


被災地の方には帰るところはないが自分にはある。


恵まれているとかは思わなかったが幸せだと正直思った。


27日の深夜に四日市へ到着。


到着を待っていてくれた福村さん(三重促成)と


4人握手を交わし、今回の支援活動は終了した。



今回の支援で私が感じたころは、


すべて平等とは思えないが支援物資は


かなり集まってきているように感じた。


ただやはり被災者の方々が口にするものは片寄がある。


新鮮な野菜や果物を口にすることはできない。


が支援物資として、提供することも難しい。


いろいろな問題はあるかもしれないが、


ボランティアのレベルで細かなニーズに


対応した支援ができればと思う。


中国四川の震災ではある都市が被災した


一つの都市を責任を持って


支援するシステムがとられたようです。


今回のように、四日市市=女川町支援みたいに対応できれば


より細やかな支援ができるように感じた。


第1次隊・第2次隊が被災地に入った時よりも


さらに状況も支援物資のニーズも変化している。


それは我々がテレビの報道を通じて知るよりも


刻々と早いスピードで変化している。


その変化を敏感にキャッチし、


支援の方向性を決めていかなければすべて


後手後手に回ってしまうと感じました。


また、私が皆様にお伝えしたいことは、


被災地には悲壮感より復興への強い意欲と今を懸命に生き抜く


人間の強さが満ち溢れていました。


ある意味被災していない我々のほうが、弱々しく感じました。


だから僕たちも常に上を向いて歩いていきましょう。


下を向いて歩むのをやめたり、


自分だけ辛い思いをしていると思ったり、


なんでも人のせいにしたり、他人の批判ばかりをしたり。


今回の震災で復興を誓う被災地の大人はもちろん、


こどもや高齢者まで上を向いて歩み始めています。


死者・行方不明者が約3万人にも及ぶ今回の震災。


言葉だけではなく「一つになろう日本。」


みんなで上を向いて進んでいきましょう。


そして僕たちにできることは、


この先もこの震災のことを決して忘れることなく、


長く長く、何年にもわたり被災地の復興への


支援を続けていくことが大切です。


多くの犠牲者の死を決して無駄にしてはいけません。


もう一度、日本人として自分自身の生き方、


姿勢・思考を振り返り、日本が一つになるには何ができるか、


被災地に対してにみんなで


どのような支援ができるか考えましょう。


他人ごとではない、日本人としてみんなで考えれば


きっと大きな答えが見つかると信じています。


「日本を信じてる」実現するのは一人一人の小さな思いからです。


最後に、被災地に派遣されて、活動を行っている


衛官・警察官・消防隊員・ボランティア、各自治体の方々


また放射能の被爆の中果敢に原発と戦う人々。


「ありがとうございます。」


彼ら・彼女達にも家族はいます。


その家族に対しても「ありがとうございます。」


皆様が任務を終え、無事家族の元へ帰れますように、


お祈り申し上げます。



平成23年3月30日


笑顔の会 第3次支援隊 水九印刷株式会社 人長 尊