森健 報告&感想
22日の午後に前日の21日に東北から、支援物資を届け帰ってきた
川村さん、宇藤さん、福村さんの3名から東北の状況、
物資の状況などを聞き、ニュースで流れている情報と現地の
状況とは違う、道が寸断されていて一度も物資を
受け取っていない、まだまだいろいろな物が足りていない
状況との話しを聞き、3人も物資を集めなおして、
「早急に行くべき」との意見でしたし、
「私も行こう」と決めました。
そして、話が進み、翌日23日夜に出発することになりました。
私も親や知人、友人など心当たりの人に、
物資の協力を依頼しました。すると多くの方が快く、
野菜、果物、牛乳、お米、お菓子、灯油、ジュース、麺、
カップ麺、布団などなど3tトラックいっぱいの
物資が集まりました。
第二陣として行く事になった溝口さん、清水さん、
私とフォローに回る者と物資を詰め込む作業をしながら、
行く場所を検討しましたが、第一陣が最後の場所になり、
物資を置ききれなかった女川町を目標に
行こうという事になりました。
女川町はニュースでも連日報道されていた所で、津波の高さが18m
を超えたと言うところです。
私は家族に話した処、小学6年生の娘が、転校した友達が
陸前高田市におり、数日前に無事の連絡がありその子に
「手紙を渡してほしい」と近所の友達とその子あてに手紙を
かいていましたので「無理かもしれないけど、頑張ってみる。」と
応えて手紙を預かりました。
3月23日 夜8時30分 フォローの数人に見送られ
北勢市場を出発しました。道中で日付も変わり朝方福島県に
入ったところで、フォローの方から連絡が入り福島県の南相馬に
放射能の事もあり「物資がない、飢え死にするかも」との
書き込みがあるとの連絡が入りました。3人で数分考えましたが
「喜ばれるなら、そこに行こう」という事になりましたが、
そのまた数分後、フォローから連絡が入り役場に
問い合わせたところ、「物資が届いた」と確認が取れ
もう一度女川町を目指す事になりました。
高速を走らせた福島県は内陸を走った為、民家の瓦が落ちて
地震の揺れの大きさを感じたり、高速のGSに給油まちで何十台と
並ぶ車を見て「すごいな」程度でしたが、石巻市に入ると
徐々に水田地帯であろう場所に散乱しているガレキから始まり、
立ち往生した車、壊れた家屋が目に飛び込んできました。
そして、いよいよ海岸に近い町に近づくと、道の両側に高く
積み上げられたガレキ、色を失ったお店や家、重なり合ったり、
家に突き刺さった車が放置されていました。
そこは、かなり大きなごみ処分場を走っているようでした。
フォローから、女川町の手前の第一陣が物資を降ろした
石巻市の避難所、石巻中学の校長先生と話ができ
「物資がほしい」と要請があると連絡があり、
まずそこに着きました。
そこには1700人の避難所生活をされている人たちが体育館、
教室などにいました。行くとあいにく、校長先生は不在だった為、
炊き出しをする場所にいた方に物資を持って着ましたと話すと
その方たちから返ってきた答えは「受け取れない」との事でした。
何故なら、物資は不足しているが数量が1700人分に
満たない為、全員に渡らず不公平感を生んでしまう。
そこにはパン、お米など基本的な物資は充分有り、
それ以外はそんな理由で受け取れない、
渡せない現実がありました。私たちは長い時間をかけて、
被災者の方の喜んでもらえると走ってきましたが、
無駄だったのかと思いもしました。
ですが、そこの方々が私たちの気持ちを察してか言われるのは、
「もっともっと、困っている人たちが大勢いる。
そこに運んであげてください。ありがとうございます。」と
自分たちの不便さ苦労はさて置き、感謝と慰労の言葉を頂きました。
気持ちを切り替え女川町に向かいました。山を越え女川町に
入るとさらに凄まじい光景が目に飛び込みました。
町は数棟のビルの骨格を残し、ほとんどがガレキ、
そのビルの3階屋上にはひっくり返った車、「なんやこれは?」
としか言いようの無いすごい光景でした。
唯一の高台、海抜16m付近にある新しいそうな病院が目的地でした。
遠めには傷ついておらず「水もここまでは来なかったんだな」
と思いましたが、安易な予想は軽く外れました。その病院に行くと
やはり何台もの車が転がって、ここまで水が押し寄せたのは
容易に分かりました。
「物資を持ってきました。」と告げると駐車場に案内され、
三重から来た事、数日前に来た仲間が野菜、果物などが喜んで
もらえたと言う事でここを目指し、運んで来た事を話しました。
数人のスタッフさんが覚えてくれていて、
「ありがとうございます。トマトも分けて食べましたが、
今日なくなりました。ありがとうございます。」と言って頂き
私たちも喜んで物資を降ろし始めました。
ですが、降ろしていると誰からともなく
「ここよりも物資が届かず困っている人たちが町の外れにいます。
そちらに持って行ってもらえませんか?」と。
私たちは手を止めそちらに向かいました。道案内してくれたのは、
30歳くらいの男性で木村さんと言い、町役場の職員で
女川町立病院に勤務されている方でした。
車の中で案内中に話してくれたのですが、
当日も病院で仕事をされていて、地震が起こった時、
患者さんたちを病院の外にいったん出したのですが、
津波が来るという事で、病院の中に非難させた事、
1階の天井まで水が来た事、物資が届かず5日間
その時のスーツで援助スタッフとして
動いていることなどを話してくれました。
「木村さんの家はどうだったんですか?」
「私の家は1階の骨格だけ残して流されました。」
「え???」
「2階に嫁と母親がいて、そのまま沖まで流されて、翌日に
家と一緒に漂流している処を漁船に発見されて助けられました。
もう数時間遅ければ助かってなかったです。私は幸せです。
身体も無事だし、家族もいますから。」すごい体験と状況に
「良かったですね」と、しか言いようの感じです。
そして、町のはずれの旅館の避難所に新鮮な野菜、
牛乳などを降ろして、次の場所に向かいました。
そこは町の各避難所に物資を配分する町の
物資の拠点でした。総合会館には、自衛隊の方が入っており、
物資も整理整頓され、陸前高田市にいる娘の友達のところに
届ける果物、衣服などを残し物資を降ろす事ができました。
木村さんは、「復興しますから、今度は遊びに来てください。
ここら辺は魚も美味しいです。私の家は漁業をやってますから、
ご招待しますよ。頑張ります。」
私たち3人は、木村さんになんて声をかけるか考えていました。
「頑張ってください!」でいいのか?
安易な言葉は被災者の人たちの感情を逆撫でしないか?
逆にプレッシャーや負担になったりしないか?
壊れたその人たちの故郷の写真を撮っていいのか?
興味本位で来ていないか?本当に役に立っているのか?
喜んでもらえているのか?分からない事ばかりです。
その後、娘の友達に手紙と物資を届ける為、
ナビで3時間程度かかる陸前高田市に向かう事になりました。
事前の情報では陸前高田市は、物資はかなりあるとの情報。
そして、女川町が20m強の津波で最もひどい被害を
受けた地区と聞いていたのですが、
この陸前高田市の町も何も無い。人もいない。
電話もナビも一切効かない。ここもまた、ガレキが車が一台、
通れる分だけどけられているだけの道、そして廃墟とガレキだけ。
視界をさえぎる高い建物、民家は根こそぎ壊されていました。
当然、娘の友達のご家族、知人とも連絡は取れず、
娘との約束は守れませんでした。
ですが、これが被災地での現実です。
被災地の状況はどんどん変化し、何が必要で、
どんな言葉、どんな気持ちでそこに
向かえば良いのかもは本当に難しいことです。
四日市に帰ってきて、物資を提供して頂いた方に
お礼と届けたことを連絡すると、
「そこでは何が一番必要とされているの?」
「その人たちは何がして欲しいのやろ?」
答えは一つではありませんでした。
カップラーメンを作る水は?お湯は沸かせるの?
沸かす人はいるの?仕切る人はいるの?
食料の残量の把握は?外部との連絡をできる状況?
物資を持って行くだけで良いの?
それはいつまで?どう自立を支えるの?被災地の状況、
特に道路、水、電気。そして避難所の大きさ、
人数、世帯数、ケガ人の有無。
ですが、外から見ていて何もせず評論したり、
キレイ事を並べるのでは意味が無い。
現地に行き本当に一人一人が何に困っているかを知ること、
得られる体験、たくさんの教わる事があると思います。
そして今回、木村さんという素晴らしい人と出会えた事、
頂いた勇気は何より大きいと思います。
この活動の中心となり第一陣のメンバーの
伊藤鰹節店 川村公博さん、三重促成 福村康仁さん、
宇藤フローリングの宇藤直樹さん。
物資を提供して頂いたアクサ生命四日市営業所の皆さん、
南出さんを支える会、山庄食品さん、北勢スーパーさん、
八王子屋さん、今井製作所さん、沙羅の木さん、
竹屋さん、宮崎本店さん、福村屋さん、
ゆるりらスタッフのみんなを始め
多くの協力いただきました。
物資は確かに被災者の方々に届けました。
そして、喜んでいただけました。ありがとうございました。
最後に一緒に車中2泊3日を共にした福村屋 溝口さん、
太平洋建設 清水さん、2人のおかげです。
ありがとうございました。
平成23年3月28日
(有)コンティニュー
ゆるりら
代表取締役 森 健