ほっこり。しあわせ日記

ほっこり。しあわせ日記

50代から、気持ちは晴耕雨読生活。


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死という最後の未来 (幻冬舎単行本)/ 石原慎太郎 曽野綾子  著


読後、近藤真彦、マッチの「ギンギラギンに、さりげなく。」という曲名が思い出されました。


石原慎太郎さんは、情熱絶やさずギンギラギン。
曽野綾子さんは、与えられた命、自然な命を大切にする。目がほとんど見えないところから、目が見えるようになった経験からも、もう充分。さりげなく、ささかやでいい。


ギンギラギンと、さりげなくの対談です。


終始、和音と不協和音をくりかえしながらも、お互いはっきりした物言いで、「そうですか。(そういう考えもありますね。)」と、大人の会話が続いていきます。


対談中の、曽野綾子さんの真に迫る言葉。


「今日まで、ありがとうございました。」


50歳から夜寝る前に「3秒の感謝」をしているそうです。


この言葉を口にすることで、今日死んだとしても、今まで生きてきた、いちおのけじめがついたということになる、といいます。


私も夜に試してみましたが、なかなか怖いんですよね。


「今日、ありがとうございました。」


とか、


「今日まで、ありがとうございました。明日も、よろしくお願いします。」くらいにしておきたくなります。



今日が、すべて。
一日一生。
今を生きる。


言葉として、共感できても、まるで、本気度が違うのでしょう。そこに力みは、ないように感じます。ほんとに一日を切に生きてる人なら、いいきれるのかしら。


私も、始めてみました。
これから、気持ちの変化が起こるかどうか。






家に帰ると、茎がしんなりとして下を向いてしまっていたウォーターマッシュルーム。


慌てて水をやり、元気になってくれー、とお願いしたら、なんとか復活してホッとしました。


あっちを向いたり、こっちを向いたりして、なんとも自由でのびのびとした風情です。











山口周さんの刺さる言葉。


☺︎ 不思議だと思いませんか?多くの人は「チャレンジ」と言われれば「それはそうだ」と答えるにもかかわらず、結局はたいしたチャレンジもせずに人生を終えてしまう。なぜそのようなことが起きるかと言うと、「何かを止めないと、何かにチャレンジできない」ということを受け入れていないからです。


☺︎アマゾンは創業以来70以上の事業に新規参入をしていますが、およそ3分の1は失敗して撤退しています。チャレンジして失敗してその学びを次のチャレンジに活かす。というサイクルを高速で回しているからこそ、新規事業の成功確率がどんどん高く見えることができるのです。


☺︎学ぶということは、本質的な意味での「若さ」を保つ秘訣でもあります。何にでも好奇心を示し、新しいことを貪欲に学び続けようとする人は、一生老いるということがありません。





読んで、山口周さんの歯切れ良いものいい💦にスカッとする思いと、どこかに所属してお世話になっている以上、無反応ではなく、自分の身を置く場をよくしていきたい、じゃあ、これからどんなことをすればいいのかを考える糸口がありました。


仕事も生活も、劣化するオバさんといわれぬよう、怠けず、でも、頑張り過ぎず。






かりゆし58さんの「オワリはじまり」という歌を、よく聴いています。



初めて聞いたのは、奄美大島の車の中です。

この歌を聴いていると、その時のゆっくり、のんびりとした時間、さみしさの中に、満足感も混ざり合ったような感覚が思い出されます。


「もうすぐ、今日が終わる。
もうすぐ、今日が終わる。


一生なんて一瞬さ。
命を燃やしたかい。」



頭でこねくり回し考え、知ったつもりのことは、体を使ってわかったことには、到底、かなわないなあと思います。


過去の一瞬、一瞬。その時々、良かれと思ってしてきた選択は、変えられないし、ときに悔いがないといえば嘘になることもあります。


でも、自分で決めたこと、その順番でないと今に至らないことなのだと、納得もします。


人のことはいい。
ひとつでも小さなことでも、
昨日より自分が良いと思うことをしてみる。
だめだったら、引き際よく、やめる。


試してみること。
挑戦してみること。
そちらの方向に向かって、努めること。


命は、たやすく与えられたものではないから、限られた命を燃やし、使い切ること。
命のエネルギーの無駄使いをしないこと。


「よく生きた。」


今日、風に吹かれて粉のように飛び散っても、自分が良かれと思う方向に歩いていきたいなあと思います。











時機が来たら、潔く退き後進に譲るような生き方は、美しい思います。


なかなかできることではないけれど、そのようにありたいと思います。


雑誌「premium」2020年3月号、「おやつの時間」のページを開くと、オードリー・ヘップバーンが、晴れやかに笑っていました。



後年、自宅でのお茶の時間を大切にしていたそうです。仕事は、一生懸命するけれど、仕事以外の大切なことに重きを置いた暮らしを望んだといいます。


美容室に置かれた雑誌でしたが、少しおてんばなリラックスしたしぐさも素のオードリー・ヘップバーンをみるようで可愛らしく、惹かれます。


写真を撮らせていただいたので、駅前のプリントショップで2Lサイズにして、キッチンの隅にお気に入りのコーナーができました。



何より大事なのは、人生を楽しむこと。幸せを感じること、それだけです。

The most important thing is to enjoy your life – to be happy – it’s all that matters.


                                   オードリー・ヘップバーン










自粛期間中、外遊びが好きな人にとっては、雄叫びをあげたくなるような苦痛の時間だったと思います。


ただ公園でボーっとベンチに座っていることが、ペンキ塗りたてのイスに座ってしまったこと以上に、とてもいけないことをしている人と見られる時期もありました。


ぼんやりしたり、散歩したり、いごこちの良い場所でお茶をしたり、図書館で読書することが、こんなにも「自由」なことだったんだと知りました。
 

さて、自粛期間中に、わたしが家でしていたことのひとつは「木道作り」です。逆境は、思わぬアイデアを浮かび上がらせます。


家の脇の通路にどくだみの小道があるのですが、長年、見ぬふりをして来た場所です。


庭のウッドデッキが、10年経ち表面が傷んでしまいサッパリしない外観になっていたのも、前から気になっていました。


思いきって、まず、ウッドデッキの面積を狭くしたのが始まりでした。木を切ると、あたりまえながら、これを片付けるのはかなり面倒。という、廃材の山ができました。





思いついて、廃材の裏面を使って小道の整備をすることにしました。


無茶をして「一日でやろうとしないこと。」と、自分に言い聞かせ、少しずつ木道の長さを伸ばしました。


途中、廃材が足りなくなり、また、ウッドデッキを切り、面積を狭め、木道を足すこと、3度ほど。まだ、完成していません。


最後まで、道が行き着くのか気になるところです。


この後、木道の脇に日陰でも育つ何かを植栽をして、ソーラーライトを仕込む予定です。


最後まで、やりきれるといいのですが。


木の小道は、歩くとコツコツと音がして、まるで、湿原を歩いているみたいで楽しい気分になります。












母にもらったじゃがいもと玉ねぎでポテトグラタンを作りました。


ひき肉と玉ねぎを炒め合わせて、じゃがいもは別にゆでて牛乳少し、塩コショウ、バジルパウダーを加えてつぶしておき、バターを皿に塗り、チーズをのせてオーブンで焼きました。


まだまだ、じゃがいもはたくさんあるので、また作ります。


母は、後期高齢者になり昔のパワフルさはなくなったけれど、畑仕事を続けています。


今も、昔と変わらない大きさの畑を維持しているものだから、朝早くに起きて結構な労力でキツそう。


そろそろ規模縮小をしたらいいのに、と、外野の私はいっています。けれど、反面、やらなければならないことがあるのは、足腰含めて、元気の源のようにも思います。


石の多かった土地を、土を入れ、肥料を入れ、手塩にかけてきたから、土地が荒れるのが嫌だ。という考えです。


人に何かしてあげたり、喜んでもらうことが生きがいのような人なので、自然や土に触れ、野菜を作り、花を育て、人にあげるという自分の循環を断ち切ることは、親のやりがいや慰みを断つようなことになるとは思います。


やりたいようにやるのが、いちばんですが、「引き際」というのも、大事です。


もう少し、体力が落ちたら、考えが変わるのかしら。私は、心は、晴耕雨読の生活なんて言ってますが、本気の畑は、とても引き継げないです。


何がいいのか、悪いのか分からないものです。
きっと、なるようになりますね。







並んだ〜  なあらんだあ  どの花見ても〜  個性的〜♪


ジョイフル本田で買ったチューリップの球根が、花盛りです。背丈もまばら、大きさもまばらですが愛らしいです。


いつも、読んでくださってありがとうございます。






なんの歌  覚えてないけど  楽しかったのね



今日は、早起きして掃除して庭を少し手入れしました。


お墓詣りをした後、家でお茶をして終わりでした。


用事は、ひとつ。ほがらかな陽気を、ゆっくりとたのしんだ一日になりました。


不便もありますが、あたりまえのことが、あたりまえじゃなかったと気づくことがあります。




励まし合いながら、一日一日ですね。











しあわせか  不幸か ものは  考えよう



前集  70  幸福を呼びこむ

「幸福は求めようとしても求められるものではない。常に喜びの気持ちを持って暮らすこと、これが幸福を呼び込む道である。


不幸は避けようとしても避けられるものではない。常に人の心を傷つけないように心がけること、不幸を避ける方法である。」





今、思いもよらないようなことが今起きています。マックも図書館も街の定食屋さんも居酒屋さんも開いてない。病院は、面会謝絶。学校にも行けない。


だからこそ、いのちを一生懸命生きなければ。
もしもが、ほんとにもしもじゃないかもなくなるとき、何をしたらいいのか、考えたりします。


50歳で終活を終えると言っていながら、ピントがあってなかったけれど、自然と考えがまとまりエンディングノートが書き進みました。


「死んだら今生は、おしまい。希望はあるけれど、あとは、つつましく、好きにお願いします。」という方向性だけです。


最近、自分が残せるものは、何かとも考える。


「たった一度きりの人生、自分の思うように生きなけりゃ損じゃないか。」という言葉は、高校卒業の時に、とても影響を受けた国語の先生がサイン帳に書いてくださったもの。


自分のやりたいように、好きなようにやる、という一見わがままな言葉にも感じたことがあるけれど、何か選択をせまられるごとに、いつも思い出していたようにも思います。


選んだ場で、融通無碍に生きていく。


みたいなことかしら。


幸せに目を向ければ、幸せ。
不幸と嘆くより、幸せの数を築くようでありたいです。