この時期、受験が近づき苦しくなると、何のために勉強をするのか、見失ってしまうこともある。

 

3年前にもブレないように、ブログに書き留めておいたけど、今の感性で書き直そう。

人々や社会に貢献する人になるということ

昔のオレの文章、硬すぎだわ。「お勉強しています感」がプンプン香り立っているなぁ。

 

 

今どきの塾や学校の先生は、「→(偏差値の)いい高校→(偏差値の)いい大学→有名企業就職→高い給料取り→幸せな暮らし」

という図式をこれっぽちも信じていない。

 

しかし、昔と変わらず、「→(偏差値の)いい高校→(偏差値の)いい大学」がベストと信じて生徒に薦める。

塾や学校の進学実績をあげたいという生々しい事情もあるだろう。

 

何故、しんどい思いをして勉強する必要があるのか?

先生方が説く理由は2つある。

 

①勉強したことは実戦(人生の現場)で自分の役に立つから

勉強では、正解のある問題を解いて○×をつけるけど、実戦(人生の現場)では、正しい答えなどない。

だから、『勉強は役に立たない。』と、先生方は考えず、

『正しい答えのない実戦(人生の現場)に行くのだからこそ、正解の解き方、知識を身につけてもらいたい」と考えている。

単に知識だけでなく、提出期限を守る、目標を立てる、地道に実行する、スケジュール管理、達成感や自信、上手くいかなかった(成績があがらない)時の対処方法などなど、社会に出ても役立つスキル、習慣を受験勉強を通して身につけてさせたいと願っている。

 

入学証書や卒業証書が、通行手形や銀の扉の鍵で、それを得るために「受験勉強という冒険」をするのではない。

「受験勉強という冒険」そのものが、自身の経験値やスキルを身につけるための貴重な限定イベントなのだ。

 

②(あなたたちに)社会に貢献する人になって欲しい(先生からの願い)

既に「有名企業就職→高い給料取り→幸せな暮らし」という図式が崩壊しているのは、隠し通せなくなっている。

有名企業も倒産する時代だし、高給得るために時間を犠牲にして、果たして幸せなのか? 

 

社会が複雑化し、あちこちで矛盾や混乱を抱えている。そういった社会をより良くするために問題解決能力の高い人財に、一人一人がなって欲しいと、先生方は考えている。

そういった人財になるには、多くの勉強が必要だと、

入学したり、卒業して終わりではなく、荷物をずっと背負って長距離歩けるようなタフさが必要だと、先生方は考えている。

そういった人財になって欲しいと願って、先生方は一人一人を指導している。

 

実は、この願いは昔と変わらない。

戦前、勉強する者に周囲は多くの期待を寄せた。

昨日と変わらない毎日。

それを変える力が、「知」であった。

「知」には運命を変える力がある。

 

だから、家族・一族、村中がこぞって勉強する者を応援した。

時には学費を援助し、生活をサポートし、敬意を表し、励ました。勉強して当たり前ではなかった。

勉強する者は、期待に応えようと頑張って、自然と社会に貢献する人になった。

そうして、家族や地元に恩返しをした。

そうやって、廻っていた。

 

社会が求める願いはずっと変わっていない。

高度成長からしばらく、忘てしまった人がいただけ。

 

長々と書いたけど、自分を成長させることができて、社会に貢献できる力がつくなら、受験勉強にこだわることはないんだよ。

勉強は当たり前ではないんだよ。