先日、接客の仕事をしていて、
珍しくカスハラを受けた。
こちらに非はないし、他のお客様も同僚も
その場にいる全員が私の味方だったのだけれど、
そのクレーマー女性は一人で勝手に怒鳴って、
一人でその怒りを持て余して去って行った。
怒鳴られようがなんだろうが、
何も悪くない私は、
あわてた素振りを一切見せないし、
丁寧かつ一線を引いた態度を絶対に変えないから、
怒鳴りがいがなかったのだと思う。
こちらがアワアワオドオドしていると、
クレーマーの怒りは正しいものだという
非言語的なメッセージになるからね。
「どうかなさいましたか?(キョトン)」
「何かお困りですか?(情緒不安定で心配なので優しく)」
「ご期待に沿えず残念です…(それはサービス対象外)」
みたいな一貫したテンションで対応すると
相手は拍子抜けするのか
捨て台詞とともに早めに退場してくれる。
感情的になっているのが自分一人だけだと気付いて、
居心地悪くなってしまうのかも。
去った瞬間に、その場のみんなが安心して、
すぐに再びあたたかい雰囲気に戻ったから、
クレーマーは背中で感じるその気配も
ちょっと寂しかったかもしれないね。
自分だけが間違っていて、自分だけが邪魔者で、
自分がいなくなることで平和になったんだから、
さぞ寂しかっただろうな…とも思う。
立ち去るその人の背中に
「私を大切にして!」と泣き叫ぶ
女の子の姿が見えた気がした。
馬鹿にするとか、下に見て溜飲を下げるとかではなく、
ただ「ああ、この人は普段から傷ついているんだな」と
手に取るようにわかってしまって、
ちょっと切なくなった。
それは相手の中の問題で、
私がボランティアでケアする気はさらさらないんだけど、
その哀しみまでが他人には全部丸見えになっているのに、
本人だけがそれに気付いていないんじゃないかな。
だって、少なくとも客観視できたら、
カスハラなんてしないしね。
「周囲の人間は私を大切にしてくれない」という
行き場のない哀しみを抱えていて、
それがもう一人で抱えきれない大きさになっていて、
ついにあふれてしまった分を、
他人に怒りをぶつけることでなんとかバランスを保って、
必死に毎日過ごしているのかな。
普段から自分はとにかく我慢を続けていると思っていて、
だから一般的には理解できないようなちょっとしたことが
「ほら!やっぱり!みんな私を馬鹿にしてる!」みたいな
物語としてつながってしまうんだろうな。
自分が大切にされていないと思っているから、
その種を必死に見つけては伏線回収して生きてる感じ。
本当の望みは、怒ることで相手から
お詫びを引き出して、
その後距離を取られることじゃないはず。
きっとその少女は、
ただよしよしされることだけを望んでいるのに、
本人が自分の怒りの内側を掘り下げない限り、
あの泣いている少女にたどりついて、
癒してあげることはできないよ。
あの女性には、早く自分の中の泣いている少女を
迎えに行ってあげて欲しい。
それは本人にしかできないことだからさ。
それがわかるのは、
私も自分の中の泣いている少女を
何度も迎えに行ったことがあるから。
忘れていてごめんねって、何度も謝ってハグしたから。
どういうことかと具体的に言うと、
ノートに自由にペンを走らせて
「私はなんでそう思うの?」って何度も
私は自分の怒りや悲しみといった感情を
深堀りしていったんだよね。
「本当はどうしたかったの?」
「本当はどうして欲しかったの?」って
ひたすら自分に聞いていくんだよ。
すると届くの。根っこの部分に。
自分の外側に、自分をケアすることを必死に求める前に、
自分が自分をケアできているかどうか。
自分の中の泣いている子どもに気付いて
きちんとよしよししてあげられているか。
一番大切なのはそこなのに、
どうして自分を自分で幸せにするという決意をしないままで、
「幸せにしてほしい」なんて他人に願えるんだろう。
どうして自分で自分を大切にするという決意をしないままで、
「大切にされたい」なんて他人に願えるんだろう。
自分大好きな私には、不思議に思える時がある。
昔読んだ『女子の人間関係』という本の中でも、
「すでに傷ついているから、そういう思考回路になる」と
書かれていたのが印象に残っている。
傷つける人は、すでに傷ついているんだよね。
だからって、許してもらえる免罪符にはならないけどね。
相手を許さないままでも、理解はできる。
理解はできるけど、私は相手のケアはしない。
私は突然のカスハラに傷ついた自分をケアする。
それでいいと思っている。
私は自分と自分の大切な人を幸せにするので忙しいから、
幸せにしてもらおうなんて思わない。
そもそも口癖が「幸せだな~」だから、
すでに幸せなんだよな。
自分の笑顔を守るためにも、
自分の感情を深堀りしてみるのは、
なかなか面白いと思うよ。