52 広瀬一族と仏教文化とのご縁 | 広瀬氏族研究所発表の広瀬康述とその一族

広瀬氏族研究所発表の広瀬康述とその一族

40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。

 

           広瀬一族と仏教文化とのご縁

広瀬氏族研究所代表です。40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。大切なことは、ご先祖様が何時もお守り頂いているから今日の私が生かされているということです。何よりもご先祖様への感謝の念が大切です。心豊かに行動します。

第1. 廣瀬大社の縁起と広瀬の祖(縁起祖、氏祖、初代当主)
1. 広瀬氏発祥の神社・廣瀬大社(奈良県北葛飾郡河合町)の存在は、源(宇野)有治の長男・広瀬信親が統治者から拝領支配した大和国広瀬郡(奈良県北葛飾郡河合町)にありますので、広瀬一族の研究当初から注目していました。
廣瀬大社との縁について次の通り、諸情報を整理分析して、これに基づいた研究成果を述べさせて頂きます。
2. 2110年程前(紀元前89年)になる崇神天皇(前148~前29)との由来による廣瀬大社縁起によれば、大和国広瀬郡の里長(さとおさ=村長)の廣瀬臣(ひろせのおみ=崇神天皇から広瀬を賜った臣下の意)藤時(ふじとき)に、ご神託があり「この地は、水足池(みずたるのいけ)という広漠たる沼地であったが、俄に陸地となり、一夜にして丈余の橘数千株が生じた。」という由来により、社殿を祀ったとされています。
  崇神天皇(第10代)は、実在した天皇の初代との説がありますが、119歳で没と数えられ、2110年以前の生存年齢として現実性は否定される可能性が高いのです。
ご神託から764年後に、天武天皇(673~686在任)の命で、広瀬の地に寺社を造営することとなり、廣瀬大社は675年に創建されています。
3. 広瀬一族に伝わる史料によれば、清和源氏宇野氏族広瀬氏の広瀬信親(1166頃~1230頃)が、広瀬氏の祖と伝わります。広瀬信親の時代には、1185年の屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡し、そして、源頼朝による鎌倉幕府の開府となります。この年、源頼朝は守護・地頭を配置しました。
 源頼朝が自らの御家人に全国の領地支配を割り当てたことにより、平氏一門は当然ながら領地没収で、源頼朝との対立関係がなくても旧支配者は配転・左遷など様々な憂き目にあったのです。 
4. 宇野氏一族は、1185年の源平の戦いの頃まで大和国宇智郡宇野村(奈良県五條市宇野)の地を支配していました。源(宇野)有治は、長男で9人の男子兄弟でした。有治は長男でありながら仏門に出家した(政治への中立的存在となった)ため、有治の8人の弟たちは、一族間における統率者がいなくなったと考えます。
また、源(宇野)有治の長男・信親は広瀬の氏を賜り大和国広瀬郡(奈良県北葛飾郡河合町)へ移封され支配したものの、広瀬の地の支配は一代限りで終わり、信親の弟二人は遠隔地(俊治は関東・光治は東北)への左遷でした。
そして、信親の長男・広瀬康述は1200年に、超過疎地の美濃国籠谷村のち広瀬郷(岐阜県揖斐郡揖斐川町)への左遷でした。広瀬康述は、美濃国広瀬郷の初代当主として広瀬家の基盤を固めました。
当時の政権にとって、広瀬氏一族は源頼朝と同じ清和源氏の末裔でありながら、権力者からは存在感(政権への協力感)のない一族とみなされた可能性があります。
5. 広瀬氏(臣・姓)一族に関する長年の専門研究者として、広瀬信親を広瀬氏の祖と位置付けしたいと考えます。
廣瀬大社の縁起にある廣瀬臣(ひろせのおみ)藤時(ふじとき)は、大和国広瀬の里の創建者であり、広瀬臣の縁起祖である尊い人物として、広瀬一族史の記録に残しておきたいと考えます。
廣瀬臣藤時を氏祖と断定できないのは、広瀬一族の系譜において、「系図纂要」(1975年頃まで国会図書館のみに所蔵が許可された系図の最高権威書)等の文献に廣瀬臣藤時の正統血縁を継承している末裔の系譜がなく、系譜上に明らかではないことが結論です。


第2.清和源氏宇野氏族広瀬氏の広瀬信親が広瀬氏の祖
清和源氏は藤原鎌足の末裔でもあります
1.清和源氏宇野氏族広瀬氏の広瀬信親が、広瀬氏の祖です。
A.清和源氏宇野氏族広瀬氏の広瀬信親(1160頃~1230頃)は広瀬氏の祖で、清和天皇と藤原鎌足(大織冠)は共に信親の先祖となります。
B.信頼性の高い参考文献等により精査しました結果は、藤原鎌足及び清和源氏の末裔にあたる広瀬信親の系譜が確認されました。その詳細は次の通りです。
2. 清和源氏の祖である清和天皇(850~881)の母方の源流をたどると藤原(中臣)鎌足です。
A.清和天皇の母は「藤原明子」で、その先祖をたどりますと藤原(中臣)鎌足となります。(清和天皇から8世代前)
B. 【藤原北家】藤原房前の子で真楯の子孫・冬嗣の孫が「藤原明子」です。
C. 【藤原北家】藤原房前の子で魚名の子孫に藤原利仁(鎮守府将軍)がいます。「藤原明子」の遠縁にあたります。
(参考)清和天皇の子・貞純親王と孫の源経基の時代と、藤原利仁の時代は概ね同時代(900年代前半)となります。
3. 清和源氏宇野氏族広瀬氏の広瀬信親(1160頃~1230頃)が広瀬氏の祖で、清和天皇と藤原鎌足は共に広瀬信親の先祖となります。
A. 清和源氏・源(宇野)有治の長子で広瀬信親(別氏号:広瀬七郎)は、広瀬氏の氏長者となり大和国広瀬郷(奈良県北葛城郡河合町)を拝領して在住し、広瀬郷の領主となりました。
B.広瀬信親の子・広瀬加賀守康述は1200年に、美濃国広瀬郷(岐阜県揖斐郡揖斐川町)への領地替えとなりました。
4. 広瀬信親の子で広瀬加賀守康述の末裔の活躍がありました。
美濃国広瀬郷(岐阜県揖斐郡揖斐川町)に在住した広瀬加賀守康述(広瀬家の初代)の末裔の活躍は、次の通りです。
A. 広瀬加賀守康述の末裔で広瀬左近将監宗勝は、1390年11月25日に美濃国小島合戦の功で、将軍・足利義満から飛騨国(岐阜県)広瀬郷(高山市国府町)を拝領し、美濃国広瀬本家の分家として飛騨国広瀬家ができました。宗勝とその末裔が、この地に瓜巣城(別名:高堂城)、広瀬城(別名:田中城)、山崎城(家臣の詰め城)の拠点をおきました。
B.広瀬加賀守康述の末裔で第14代当主は、広瀬康平で、美濃国広瀬郷広瀬城主です。
・康平の弟・安周(号・安近)は、甲斐国(山梨県)八代郡小石和へ移住し広瀬村を形成しました。
・安周(別号・安近)の末裔で広瀬郷左衛門景房は、武田信玄の家老・山縣昌景に仕えました。後に、徳川家康の家臣となり、江戸幕府になってから徳川家康の命で井伊直政(彦根藩主)に仕えました。
・広瀬郷左衛門景房の弟・広瀬将監正直は、甲斐国(山梨県)から筑前国(福岡県)博多へ移住して商人となりました。後に、豊後国 (大分県)日田へ移っています。
・広瀬正直は、広瀬淡窓・広瀬久兵衛・広瀬旭荘の三兄弟の祖です。
C広瀬加賀守康述の末裔で第16代当主は、広瀬康利で美濃国広瀬郷広瀬城主です。
・康利の弟・広瀬泰好(号・隼人)は、美濃国(岐阜県)本巣郡別府(瑞穂市)へ移住し別府城主となりました。
泰好の末裔の広瀬十郎兵衛正好は、関ヶ原の戦いで敗れて別府城を捨て近在の只越城へ居城を移しました。
D広瀬加賀守康述の末裔で第17代当主は、広瀬康則で美濃国広瀬郷広瀬城主です。
・康則は、1572年6月13日に織田信長の家臣・稲葉一鉄に攻められ討ち死に落城しました。
・康則の二男・康親は、後に羽柴(豊臣)秀吉に仕えて「広瀬兵庫助(広瀬兵庫頭宗直)」を名乗っています。
1582年6月2日の本能寺の変直後に、羽柴(豊臣)秀吉家族の逃避の警護にあたり活躍しました。
広瀬兵庫助は、秀吉の命で近江国新庄城主(滋賀県長浜市)・美濃国広瀬城主(岐阜県揖斐郡揖斐川町)を兼務で16年間務めました。1600年9月15日の関ヶ原の戦いに西軍で出陣し、戦い敗れて出家し寺院住職・西了となりました。
5.源(宇野)有治の二男、三男の末裔の広瀬氏の活躍
A.源(宇野)有治の二男の広瀬俊治の末裔は、長期の繁栄があったとみられます。この末裔には徳川家臣とみられる勘定吟味方役がいました。役職から江戸(東京)在住とみられます。
B.源(宇野)有治の三男の広瀬光治(入野屋光治)は、陸奥国(青森県・岩手県・宮城県・福島県のいずれかの地域) の入野屋荘園への領地替えになり、この末裔は陸奥国で長期の繁栄があったとみられます。
=以下は、清和源氏宇野氏族以外の広瀬氏です=
6.宇多天皇(867~931)を祖とする宇多源氏佐々木氏族広瀬氏
宇多源氏の末裔で秀義(佐々木氏の祖)出雲国(島根県)の末裔は、後に近江国(滋賀県)へ移り、佐々木氏の末裔が広瀬秀泰(広瀬氏の祖)です。
7.村上天皇(926~967)を祖とする村上源氏赤松氏族広瀬氏
播磨国(兵庫県)宍粟郡広瀬村に、村上源氏赤松氏が在住していました。その末裔で赤松師季の子・師頼(広瀬弥四郎)が広瀬氏の祖です。
8.天武天皇(?~686)の子・舎人親王(676~735)の末裔になる顕成(清原真人)の末裔で、成景(広瀬三郎)を祖とする広瀬氏(清原氏族広瀬氏)
9. その他の広瀬氏
・阿波国(徳島県)などがみられますが、可能性としては上記のいずれかの広瀬氏に繋がるものと推測されます。 ( )内の数字のみは生存年を表記し、文中は敬称略
【参考文献】以上の情報を証明する主な文献は次の通りです。
系図纂要(内閣文庫・刊=1975年頃まで国会図書館のみに所蔵が許可された系図の最高権威書)・尊卑分脈・広瀬一族・新編姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典・新訂寛政重修諸家譜・日本史辞典・日本史年表地図・広瀬一族史料などの著書。=以上の記事に関してご関心のある方は、是非「系図纂要」をはじめ関係文献をご覧ください=


第3. 広瀬一族と仏教文化とのご縁
日本の仏教の始まりは、日本書紀によると飛鳥時代の552年に百済(韓国)から仏教が伝来されたとされています。その後に日本は中国への遣隋使・遣唐使の派遣により、奈良仏教系の寺院(東大寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺など)の建立で仏教文化の発展と布教の進展がありました。
その後の平安時代に入り、平安仏教といわれる最澄(天台宗)、空海(真言宗)の開宗により更なる仏教文化の進化を遂げています。
広瀬一族と仏教とのご縁は、詳細の記録は残されていませんが、広瀬一族の系譜を遡っていくと、凡その縁と関りが読み取れることと思っています。広瀬一族では、最澄を開祖とする天台宗や空海を開祖とする真言宗との関りが仏教文化とのご縁の始まりと考えられます。
1. 真言宗との縁
真言宗は、9世紀初頭に空海(794~835)が開宗しています。後に、真言宗の師範になった宇多天皇(867~931)が、空海に弘法大師の称号を贈っています。
寺院は、東寺(本寺)、高野山金剛峯寺(末寺)があります。清和天皇は宇多天皇の従兄弟にあたり、清和源氏・宇多源氏にとっては深い縁のある宗派になります。
2. 浄土宗との縁
法然上人(1133~1212)が浄土宗を開宗しています。浄土真宗の元祖とされています。
広瀬一族の先祖には、法然上人と深くかかわった人物がいます。源(宇野)有治(1139~1221)で、平安時代末期の武人です。源(宇野)親治の長子になります。源(宇野)有治は、広瀬康述(美濃国広瀬郷初代当主)の祖父にあたります。
3. 浄土宗と源(宇野)有治の縁
源(宇野)有治は父・源(宇野)親治とともに保元の乱・平治の乱(皇位継承問題の朝廷の内紛)に出陣しましたが、戦後に世の無常を感じ、浄土宗の法然上人(源空)に師事し出家しました。時を経て浄土真宗の親鸞聖人の教化を得て「聖空」を賜り、大和国吉野郡(奈良県)に草庵を結び、その後も複数の道場(寺院)を設けて念仏教化に努めています。
4. 浄土真宗との縁
親鸞聖人(1173~1263)が浄土真宗を開宗。浄土宗の開祖・法然上人は浄土真宗の元祖とされています。
5. 天台宗と広瀬康述(美濃国広瀬郷=岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内=初代当主)の縁
広瀬康述の末裔の寺院(友徳寺・妙輪寺)は、当初は天台宗でしたが、友徳寺が1222年に、妙輪寺が1481年に天台宗から浄土真宗(分派後は真宗大谷派=東本願寺)へとそれぞれに改宗しています。
6. 広瀬兵庫助と浄土真宗(本願寺)との縁
・広瀬康述の末裔の友徳寺が1222年に天台宗から浄土真宗(本願寺)に改宗しています。
・広瀬兵庫助の父で第17代広瀬城主の広瀬康則は、1572年6月13日に信長の家臣・稲葉一鉄に攻め込まれ討ち死に落城しています。(領地没収)
・その後1576年に、広瀬兵庫助ら3人の兄弟は浄土真宗(本願寺)の顕如上人に拝謁し、父の討ち死に落城の無念を報告しています。
ちょうど1576年は、本願寺(大坂の石山に在ったので通称「石山本願寺」といいます)が、信長に対抗して戦う一向一揆を支援している時期で、広瀬兵庫助ら3人の兄弟は顕如上人の要請をうけて、従者の二人と共に本願寺の戦士として信長軍と戦いました。1580年にも通称「石山本願寺」へ出陣し信長軍と戦っています。
・広瀬兵庫助は石田三成からの要請で1600年に関ヶ原の戦いに西軍として出陣して敗れ、自らを戦死として2年の修行の後に、真宗大谷派(東本願寺)所属の福順寺(滋賀県)の住職・西了として永遠の平和を祈り余生を過ごしました。
7.広瀬兵庫助の弟・了玄は、1565年(当時5歳)に天台宗総本山の園城寺(通称・三井寺=滋賀県)の藤原氏へ養子となり出家・修行の道へ入りました。 
                                                   
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研究者:愛知県春日井市藤山台 

広瀬氏族研究所代表広瀬 まさのり

 

 

広瀬家伝 ー52ー