45 源有治は保元・平治・治承の乱に出陣 | 広瀬氏族の広瀬康述とその一族

広瀬氏族の広瀬康述とその一族

40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。

 

 

       源有治は保元・平治・治承の乱に出陣

40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。

1. 広瀬兵庫助から直伝の「広瀬家史料」は、後継の広瀬家一族への「置き手紙」です。広瀬兵庫助の苦難と活躍のリアルな一生が記されています。兵庫助本人しか知らない生の記録です。この広瀬兵庫助の事績の解明には約40年の年月を費やしました。
2. 広瀬兵庫助の子孫は数多くの真宗大谷派(東本願寺)所属の寺院を建立・開基しています。これらの寺院は広瀬兵庫助とその一族の事績を克明に記録し伝承を続けてきました。「広瀬家史料」は、子孫の寺院の過去帳の一つで、広瀬兵庫助の生の声が記録され今に伝えています。
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【広瀬兵庫助の簡単履歴】
1.生い立ちと氏名などについて
(1)広瀬兵庫助は美濃国(岐阜県) 第17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。1624年3月15日に66歳で死亡しました。清和源氏の末裔と伝えられています。
(2) 広瀬兵庫助は主たる通称名で、親の命名による本名は広瀬康親です。広瀬兵庫助は、康親→兵庫→兵庫助→兵庫頭宗直→西了と時代の統治者から登用等の諸事情で名を変えています。
(3) 1572年6月13日、広瀬兵庫助の父の康則は、信長家臣・稲葉一鉄に攻め込まれ城主・康則は討死し落城しました。その後の2~3年間は一家離散状態となりました。
(4)これまでの調査で、広瀬兵庫助には①長男・太郎②次男・浄念③三男・善可の3人の兄弟がいました。太郎には子孫がいなかった。
 広瀬兵庫助の次男・浄念と三男・善可の子孫は、それぞれ真宗大谷派(東本願寺)の寺院住職を継承し広瀬兵庫助の伝記を残しました。
2.「広瀬兵庫助」の主な活躍について
(1) 1574年、兵庫助は羽柴秀吉の長浜城築城に協力しています。
 その後「本能寺の変」(1582年)後に秀吉の家族の避難警護に尽力し家臣となり近江国新庄城主となりました。(500石の知行)
(2) 1583年に戦功で1500石の知行となり、美濃国広瀬城主も兼務となりました。(秀吉の亡くなるまでの約16年間に亘り城主を務めました)
(3)豊臣秀吉が死亡して2年後、石田三成の誘いで関ヶ原の戦い(1600年9月15日)に出陣しましたが敗戦し、翌9月16日に自らを戦死とし福順寺(滋賀県長浜市高山町)に位牌を祀らせました。
(4)2年間の修行後、1602年に福順寺(長浜市高山町)住職・西了となりましたが、家族と元の家臣以外には広瀬兵庫助は戦死したとして極秘とされ、子孫の婚姻も元の家臣関係者の子孫以外とは縁を結ばなかったのです。(これが明治時代初期まで続いたという記録があります)

【広瀬兵庫助の先祖・源有治(みなもとの・ありはる)との共通点】
1. 関ヶ原の戦いで敗れた兵庫助は、自らを戦死とし位牌を祀り住職・西了となりました。永遠の平和を祈願したのです。住職・西了として永遠の平和を願い、人としての大英断をしたのです。
2. 人としての大英断「永遠の平和」は、文字通り永遠の人類共通の課題です。広瀬兵庫助の大英断には何か感じるものがありましたので、兵庫助の先祖の事跡を個人別に徹底調査しました。
3. 共通の心をもつ偉大な先祖を発見しました。初代・広瀬加賀守康述[鎌倉時代初期の1200年に、大和国広瀬郷(奈良県)から美濃国広瀬郷(岐阜県)へ領地替えとなった]の祖父・源有治(宇野有治)です。
広瀬兵庫助の先祖・源有治は、平安時代末期の武人で、保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)・治承の乱(1180年)に出陣しましたが、戦いに利がなく世の無常を感じ出家し83歳で永眠しました。
4. 広瀬康述(やすのぶ)の父は広瀬信親(のぶちか)で、康述の祖父が源有治(宇野有治)です。広瀬兵庫助の時代から、さらに400年ほど前の先祖です。
5. 源有治(宇野有治・1139年~1221年)は、時代が異なるものの広瀬兵庫助と同じく戦乱の世を憂い、出家して仏門に入り道場(寺院)を設けて念仏教化に励んだとの歴史書の記述があります。
6. 広瀬兵庫助の時代の関ヶ原の戦い直後の様子。豊臣(西軍)の残された家臣の状勢は、「再び戦いを-との企てを捨てなかった」という記録が残されています。しかし、生まれ変わったとする住職・西了は、余生を人の生きる道に役立ちたいとした決心を貫き、弟「了玄」の助言と協力を得て仏門に仕えました。
7.生まれ変わったとする住職・西了は、仏門に仕えて慶長19年(1614年)の「大坂冬の陣」と慶長20年(1615年)の「大坂夏の陣」には全く関与せず「永遠の平和」への道筋をつけました。

【広瀬兵庫助の先祖・広瀬加賀守康述】
 兵庫助の先祖は、広瀬加賀守康述で鎌倉時代初期から代々続く美濃国広瀬郷(岐阜県揖斐郡揖斐川町)の地方豪族の家柄です。清和源氏の末裔と伝えられています。
兵庫助の先祖・広瀬康述は、鎌倉時代初期の1200年に美濃国広瀬郷広瀬村の領地を支配する地位(地頭)が与えられました。当時は、険しい山を越えた山奥にある土地でした。(現在の判断では左遷と推測しています) 
 1390年11月、兵庫助の先祖で広瀬康述の子孫・宗勝は美濃国小島合戦の功績で当時の将軍・足利義満から感状(領地の支配を認める文書)を拝受しました。宗勝は飛騨国瓜巣(岐阜県高山市)を拝領し、この領地を支配する地位を授かりました。美濃国の広瀬一族は飛騨国広瀬郷に分家ができました。

【広瀬兵庫助の祖父と父は大事件に直面】
 時代はさかのぼって、兵庫助の祖父・康利と父・康則は大事件に直面しました。そこで、その大事件の背景を探ってみたいと思います。
 戦国時代の多くの百姓(農民)は、戦乱が続く不安定な政治体制下で過酷な生活を強いられていました。その実態は、頭角を表してきた守護大名(戦国大名のこと)の抗争の影響を受けて、守護大名と地頭からの二重支配(年貢の二重徴収など)の状態となりました。
 その結果、重税と過酷な労働に不満をもつ百姓を中心とした抵抗勢力の動きが活発となり、一向一揆(浄土真宗の信者の一揆、この宗派のことを他の宗派は一向宗といった)といわれる権力者に対抗する動きが全国各地に広がっていました。当時の一向一揆は、国人(地頭などの事実上の領主)や地方の土豪(その地の豪族)などが中心となり、守護大名から自治権を回復する為の抵抗運動が活発化していました。 
 天文元年(1,532年)には、山城国(京都府)の山科本願寺が法華宗徒の焼き討ちに遭い、この時の證如上人(本願寺第10世)は、後に大坂の石山に本願寺の本拠を移しました。天文2年(1,533年)には、摂津国(大阪府の一部と兵庫県)で一向一揆がありました。
 天文3年(1,534年)には、北近江(滋賀県北部)守護大名の京極氏に仕えた浅井亮政(浅井長政の祖父)は、京極氏の領地を奪いました。(世に言う下克上で、南北朝から戦国時代における下級階級の台頭傾向のことをいう)
 浅井氏は、その後の一時期において越前国の朝倉氏、美濃国の斎藤氏と同盟を結んで勢力をふるいましたが、浅井長政(淀君=秀吉の側室=の父)は天正元年(1,573年)に織田信長と戦って、祖父の代から39年で滅亡しました。

【広瀬一族の最初の大事件の詳報】
 天文3年(1,534年)の2月下旬(当時は旧暦の時代で、現在の暦では4月中旬にあたる)に、最初の大事件は起きました。
 康述の子孫にあたる広瀬彈正康利(兵庫助の祖父)が、美濃国広瀬郷の広瀬村(岐阜県揖斐郡揖斐川町)第16代広瀬城主の時、康利の長男・康明(当時6歳)は広瀬村北村(北村に広瀬城がありました)の住人で百姓頭(農民の責任者)の助太夫ら10人に山奥深い炭焼き小屋へ連れ出されて監禁され殺害されました。
 広瀬村北村の百姓たちは、地侍の立場にある城主の康利に対し長男・康明を人質に連れ出して、城主が百姓の先頭に立って一揆を起すよう要求したのです。
 広瀬城主・康利の判断が甘く、守護大名(戦国大名)の抗争に巻き込まれることを恐れて、百姓の要求を受け入れないまま決断を思い悩んでいるうちに、幼い康明が殺害されたのです。
 事件の発端は、広瀬郷の百姓たちが最も地の利の良い(交通の便が良く経済圏として最も近かった)北近江の京極氏からの二重支配の触手に苦しんでいたのでした。
 ところが、この事件で事態は膠着状態のままとなったあげく、その年に京極氏は家臣の浅井氏に国を奪われ衰えたのです。
 京極氏に仕えた浅井亮政(浅井長政の祖父)が京極氏の領地を奪うのが半年早く起きていたら、広瀬郷の城主・康利の長男・康明の殺害事件は無かったかも知れません。
 その後、越前国の朝倉氏、美濃国の斎藤氏、近江国の浅井氏は、同盟を結び一時は落ち着きを取り戻したかと思われました。
 天文3年(1,534年)の2月(現在の暦では4月中旬)の事件が、数十年後に広瀬一族が遭遇する最大の危機(第二の大事件)の前兆だったとは、誰も夢にも思わなかったのでした。
 それは、織田信長の覇業(武力で天下の支配者となる事業)著しい台頭(今まであった勢力に代わって新しく勢力を得て進出してくること)だったのです。
 また、一時は衰えたかにみえた京極氏は、浅井氏との政略結婚を重ねて、京極高次(浅井長政の次女・お初=淀君の妹=を妻として迎えた)の時代に豊臣秀吉に仕えて再興しました。
 話は元に戻りまして、この事件当時、分地政策として兵庫助の祖父・康利は、城主とその家族の一部が別々の土地に住んでいました。
 城主家族の生命の安全を確保するために康利の長男・康明は美濃国の広瀬郷広瀬村に住み、次男の康則(当時3歳・兵庫助の父)を飛騨国の広瀬郷瓜巣村(岐阜県高山市国府町)に住まわせていました。
 この康明殺害事件の結果、康利の次男・康則は兄・康明が継ぐはずだった城主の地位を父・康利の死後に、第17代城主として跡を継いだのでした。
 事件当時の康則は、その名も「広瀬飛騨四郎康則」でしたが、この事件のあと暫くして美濃国広瀬郷広瀬村に戻り「広瀬左馬亟康則」と名乗り、父・康利の死後に「広瀬加賀頭康則」として城主(地頭職に就いた)となりました。
 この事件後の康利は、再び決断ミスを繰り返さないようにと行動していました。後に、康利の3人の孫(康利の次男で康則の子=兵庫助を含む3兄弟)が信長に対抗して一向一揆の活動支援のために本願寺のある大坂の石山に出陣したのは、こうした事情があったからです。 
 この当時の広瀬一族には、美濃国の広瀬郷に本家を置いて飛騨国の広瀬郷に分家があり、本家と分家には併せて4つの城がありました。
 美濃国の広瀬郷広瀬村には広瀬城、飛騨国の広瀬郷瓜巣村(岐阜県高山市国府町)には瓜巣城(高堂城ともいう)、飛騨国の広瀬郷名張村(岐阜県高山市国府町)には広瀬城(田中城ともいう=家臣の田中家が城代家老だったため)、飛騨国の広瀬郷広瀬町村(岐阜県高山市国府町)には山崎城(広瀬家の持城で詰城=家臣が出勤するための城)があったのです。
 こうした中で、美濃国と飛騨国の広瀬一族は本家と分家の相互扶助(お互いに助け合う)の密接な関係が保たれていました。
 そして、元亀3年(1,572年)6月13日、広瀬家の本家に最大の危機(第二の大事件)が起こったのです。
 美濃国広瀬城主・康則は家臣との不和がきっかけで、亡父・康利の老家臣だった東野大助の謀略(織田の家臣に内通していた)により織田信長の家臣・稲葉一鉄(江戸幕府第3代将軍徳川家光の乳母・春日局の祖父)に大勢で攻められ落城しました。
 城主・康則(兵庫助の父)は討ち死にし42歳の生涯を閉じました。そして、広瀬城372年間の長期の繁栄も一旦幕を閉じました。信長により領地は没収されました。
 この後、天正9年までの約9年間にわたり広瀬村は、織田信長の家臣・稲葉一鉄が直接支配することはなく、信長による横蔵寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町にあり 断食による修行僧がミイラ化した即身仏で有名な寺院) への統治委託(代官)となりました。
 以上の通り、天文3年(1,534年)には祖父の康利が重大な危機に直面し、元亀3年(1,572年)には父の康則が戦死し落城、慶長5年(1,600年)には兵庫助も戦いに敗れ親子孫と三代続けて絶望のどん底に突き落とされました。

【広瀬兵庫助は秀吉の長浜城築城に協力】
 兵庫助の父で広瀬城主の康則は1572年、信長家臣の稲葉一鉄の攻撃で討死・落城しました。2年後の1574年、兵庫助は信長家臣・秀吉の長浜城築城に協力しました。「本能寺の変」(1582年)直後に秀吉家族の逃避行に尽力し、秀吉の家臣として城主となりました。奇異な関係ですが戦国時代に秀吉から見出された広瀬兵庫助でした。 

【広瀬兵庫助とその兄弟】
 1572年の美濃国広瀬城の落城時、城主・広瀬康則は討死、康則には4人の男子がいました。長男・康宗は母の実家へ逃げて、次男・康親(後の兵庫助)は金森長近(後の越前国大野城主)を頼り修行にでました。三男・了玄は、三井寺へ出家し修行。四男・九助は叔母の家へ預かりとなりました。
 1572年6月の広瀬城落城の時、康則には兵庫助を含む4人の男子がいましたが個別の主な行動は次の通りです。
【広瀬兵庫助とその兄弟】
1572年の美濃国広瀬城の落城時、康則の長男・康宗は左門九郎と名を変え美濃国徳山村へ逃げ百姓となり、落城3年後の1575年に帰郷しました。後に康宗は1576年・1580年と2度、弟の兵庫助、九助と大坂・石山本願寺に出陣しました。1600年の関ヶ原の戦い出陣後に西願の名で寺院住職となりました。
広瀬康則の次男・康親(後の兵庫助)は、武家を頼り武家再興の修行に出ました。康親(兵庫助)は、落城2年後の1574年に武家の屋敷を離れ、美濃国広瀬村へ帰り広瀬兵庫と名乗りました。
 1574年に広瀬村へ帰郷の兵庫助について日坂古文書には、秀吉が長浜城築城時の日坂村から土塀用大量竹材の調達で、秀吉は日坂の地侍・久賀宛の文書で「自領に良い竹がなく広瀬兵庫が沙汰する。大小によらず差し出すよう」命令したとあります。
 兵庫助は1574年、日坂村・久賀から竹を買付けて代金を支払い、調達の竹を長浜城築城現場まで輸送し納入。兵庫助は2年前に父・康則が信長家臣・稲葉一鉄により討死落城にもかかわらず、秀吉へ竹を納入し協力。8年後、秀吉家臣になるとは不思議な運命としか言いようがありません。
 兵庫助は1576年及び1580年と2度、康宗・九助の三兄弟で大坂石山・本願寺に出陣しています。
【広瀬康宗・兵庫助・九助らの出陣】1576年夏、康宗・兵庫助・九助の3兄弟は小殿乙若らの従者と大坂石山・本願寺の第11世顕如上人に拝謁、父・康則は信長家臣・稲葉一鉄に討死の旨報告。顕如上人援助の一向一揆の抗争に本願寺の戦士として出陣、信長軍に対抗しましたが従者の内2人が戦死しました。
 1580年にも康宗・兵庫助・九助の3兄弟は大坂石山・本願寺へ出陣しました。1580年に大坂石山・本願寺は織田信長の攻撃を受け焼失しました。その跡地は豊臣秀吉により1583年から3年をかけて大坂(明治維新から大阪に名称変更)城が築城されました。


【参考文献】
広瀬兵庫助一族に関する歴史と伝記は、次の文献を参考にしました。浄休寺寺誌・真敬寺史料・願生寺史料・姉小路と広瀬・長浜城歴史博物館史料・東浅井郡志・岐阜県史・岐阜県郷土偉人伝・揖斐郡史・岐阜県百科事典・奈良県の歴史・日本史年表地図・広辞苑など多数の著書。

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研究者:愛知県春日井市藤山台 

広瀬氏族研究所代表広瀬まさのり

 

 

 

 

 

 

 

広瀬家伝 ー45ー

 

 

 

真敬寺(岐阜県垂井町)