歴史学者と歴博館長らの誤認識
すでに広瀬兵庫助史料と異なる部分について長浜城歴史博物館へは、その全てをご連絡いたしましたが、同館の展示解説とHP解説には事績の根幹に誤りがあります。
1. 広瀬兵庫助は、1582年6月の「本能寺の変」直後に長浜城から逃避行する秀吉家族の警護と慰労をして、その功が認められて秀吉の家臣になりました。
2. その後、約16年間にわたり近江国(滋賀県)新庄城主と美濃国(岐阜県)広瀬城主を兼任で務め、秀吉の他界後は秀頼の馬回り役として豊臣家を支えました。
3. 1600年9月15日の「関ヶ原の戦い」には、石田三成の求めに応じ鉄砲隊700騎を中心とした兵士を引き連れて出陣しましたが、戦い敗れて翌16日に自らを戦死したとして近江国(滋賀県)にある寺院で位牌を祀らせ姿を消しました。
4. それから2年の修行後、元家臣と共に近江国(滋賀県)にある寺院(真宗大谷派所属)へ秘かに入り、住職「西了」として仏門に仕えました。
5. 仏門に仕えてからの事実は、明治時代になるまで400年間も一族のみで極秘とされていました。広瀬兵庫助は、今流に言えば「個人情報保護」主義の典型でした。広瀬兵庫助の一生は、その一族のみへの直伝の史料が残されています。末裔の寺院の過去帳に詳細に記されています。これが世間の一般には、歴史家も知らない無名の戦国武将の一生だったのです。
6. 秀吉の伝記とされる「豊鑑」と、滋賀県長浜市北部(旧・東浅井郡)の郷土史にのみ「広瀬兵庫助」の「本能寺の変」直後の記述がありますが、超個人情報保護主義者の広瀬兵庫助の詳細情報は、これらの文献では推測と仮定に基づく内容で記述されていました。
7. 2015年10月に長浜城歴史博物館が広瀬兵庫助に関する史料を公開するにあたり報道機関への発表をしましたが、歴史学者と歴史博物館館長らの文献崇拝による誤認識の人物像や経歴でした。
8. 長浜城歴史博物館館長へは、私からの広瀬兵庫助直伝の情報を10数年以上前から提供していたにも関わらず、同館はその情報提供を完全無視して、広瀬兵庫助の出自の根幹部分を誤発表していたのです。
9. このたび無名の戦国武将の事績について、400年間も門外不出の武将の記録としてインターネット上に真実をお伝えするために公開させていただいています。詳しくは、ブログを、ご覧ください。
10. 私は、広瀬兵庫助の子孫です。広瀬兵庫助直伝の史料に基づき40年以上にわたり広瀬兵庫助の事績を調査研究して参りました。その成果を、ブログなどで、世の中の一般の皆様方にご理解を頂けるよう公開させて頂きました。よろしくお願いいたします。
11. 歴史の「関ヶ原の戦い」では、広瀬兵庫助の存在は影のようですが。真の存在は『「関ヶ原の戦い」に出陣し敗れた広瀬兵庫助から長男・太郎への手紙』の解読により、ブログで初公開していますので、広瀬兵庫助の真意をご理解いただければ幸いです。
研究者:愛知県春日井市藤山台
広瀬氏族研究所代表広瀬まさのり
広瀬家伝 ー43ー