33 信親の子・広瀬康述とその一族 | 広瀬氏族研究所発表の広瀬康述とその一族

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40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。

信親の子・広瀬康述とその一族 

40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。

清和源氏は藤原鎌足の末裔でもあります
1. 清和源氏宇野氏族広瀬氏の広瀬信親が、広瀬氏の祖です。
A.清和源氏宇野氏族広瀬氏の広瀬信親(1160頃~1230頃)は広瀬氏の祖で、清和天皇と藤原鎌足(大織冠)は共に信親の先祖となります。
B.信頼性の高い参考文献等により精査しました結果は、藤原鎌足及び清和源氏の末裔にあたる広瀬信親の系譜が確認されました。その詳細は次の通りです。

2. 清和源氏の祖である清和天皇(850~881)の母方の源流をたどると藤原(中臣)鎌足です。
A. 清和天皇の母は「藤原明子」で、その先祖をたどりますと藤原(中臣)鎌足となります。(清和天皇から8世代前)
B. 【藤原北家】藤原房前の子で真楯の子孫・冬嗣の孫が「藤原明子」です。
C. 【藤原北家】藤原房前の子で魚名の子孫に藤原利仁(鎮守府将軍)がいます。「藤原明子」の遠縁にあたります。
(参考)清和天皇の子・貞純親王と孫の源経基の時代と、藤原利仁の時代は概ね同時代(900年代前半)となります。

3. 清和源氏宇野氏族広瀬氏の広瀬信親(1160頃~1230頃)が広瀬氏の祖で、清和天皇と藤原鎌足は共に広瀬信親の先祖となります。
A. 清和源氏・源(宇野)有治の長子で広瀬信親(別氏号:広瀬七郎)は、広瀬氏の氏長者となり大和国広瀬郷(奈良県北葛城郡河合町)を拝領して在住し、広瀬郷の領主となりました。
B.広瀬信親の子・広瀬加賀守康述は1200年に、美濃国広瀬郷(岐阜県揖斐郡揖斐川町)への領地替えとなりました。

4. 広瀬信親の子で広瀬加賀守康述の末裔の活躍がありました。
美濃国広瀬郷(岐阜県揖斐郡揖斐川町)に在住した広瀬加賀守康述(広瀬家本家の初代)の末裔の活躍は、次の通りです。
A. 広瀬加賀守康述の末裔で広瀬左近将監宗勝は、1390年11月25日に美濃国小島合戦の功で、将軍・足利義満から飛騨国(岐阜県)広瀬郷(高山市国府町)を拝領し、美濃国広瀬本家の分家として飛騨国広瀬家ができました。宗勝とその末裔が、この地に瓜巣城(別名:高堂城)、広瀬城(別名:田中城)、山崎城(家臣の詰め城)の拠点をおきました。
B.広瀬加賀守康述の末裔で第14代当主は、広瀬康平で、美濃国広瀬郷広瀬城主です。
・康平の弟・安周(号・安近)は、甲斐国(山梨県)八代郡小石和へ移住し広瀬村を形成しました。
・安周(別号・安近)の末裔で広瀬郷左衛門景房は、武田信玄の家老・山縣昌景に仕えました。後に、徳川家康の家臣となり、江戸幕府になってから徳川家康の命で井伊直政(彦根藩主)に仕えました。
・広瀬郷左衛門景房の弟・広瀬将監正直は、甲斐国(山梨県)から筑前国(福岡県)博多へ移住して商人となりました。後に、豊後国 (大分県)日田へ移っています。
・広瀬正直は、広瀬淡窓・広瀬久兵衛・広瀬旭荘の三兄弟の祖です。
C広瀬加賀守康述の末裔で第16代当主は、広瀬康利で美濃国広瀬郷広瀬城主です。
・康利の弟・広瀬泰好(号・隼人)は、美濃国(岐阜県)本巣郡別府(瑞穂市)へ移住し別府城主となりました。
泰好の末裔の広瀬十郎兵衛正好は、関ヶ原の戦いで敗れて別府城を捨て近在の只越城へ居城を移しました。
D広瀬加賀守康述の末裔で第17代当主は、広瀬康則で美濃国広瀬郷広瀬城主です。
・康則は、1572年6月13日に織田信長の家臣・稲葉一鉄に攻められ討ち死に落城しました。
・康則の二男・康親は、後に羽柴(豊臣)秀吉に仕えて「広瀬兵庫助(広瀬兵庫頭宗直)」を名乗っています。
1582年6月2日の本能寺の変直後に、羽柴(豊臣)秀吉家族の逃避の警護にあたり活躍しました。
広瀬兵庫助は、秀吉の命で近江国新庄城主(滋賀県長浜市)・美濃国広瀬城主(岐阜県揖斐郡揖斐川町)を兼務で16年間務めました。1600年9月15日の関ヶ原の戦いに西軍で出陣し、戦い敗れて出家し寺院住職・西了となりました。

5.源(宇野)有治の二男、三男の末裔の広瀬氏の活躍
A.源(宇野)有治の二男の広瀬俊治の末裔は、長期の繁栄があったとみられます。この末裔には徳川家臣とみられる勘定吟味方役がいました。役職から江戸(東京)在住とみられます。
B.源(宇野)有治の三男の広瀬光治(入野屋光治)は、陸奥国(青森県・岩手県・宮城県・福島県のいずれかの地域) の入野屋荘園への領地替えになり、この末裔は陸奥国で長期の繁栄があったとみられます。

=以下は、清和源氏宇野氏族以外の広瀬氏です=
6.宇多天皇(867~931)を祖とする宇多源氏佐々木氏族広瀬氏
宇多源氏の末裔で秀義(佐々木氏の祖)出雲国(島根県)の末裔は、後に近江国(滋賀県)へ移り、佐々木氏の末裔が広瀬秀泰(広瀬氏の祖)です。

7.村上天皇(926~967)を祖とする村上源氏赤松氏族広瀬氏
播磨国(兵庫県)宍粟郡広瀬村に、村上源氏赤松氏が在住していました。その末裔で赤松師季の子・師頼(広瀬弥四郎)が広瀬氏の祖です。

8.天武天皇(?~686)の子・舎人親王(676~735)の末裔になる顕成(清原真人)の末裔で、成景(広瀬三郎)を祖とする広瀬氏(清原氏族広瀬氏)

9. その他の広瀬氏
・阿波国(徳島県)などがみられますが、可能性としては上記のいずれかの広瀬氏に繋がるものと推測されます。 
     ( )内の数字のみは生存年を表記し、文中は敬称略 以上

【参考文献】以上の情報を証明する主な文献は次の通りです。
系図纂要(内閣文庫・刊=1975年頃まで国会図書館のみに所蔵が許可された系図の最高権威書)・尊卑分脈・広瀬一族・新編姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典・新訂寛政重修諸家譜・日本史辞典・日本史年表地図・広瀬兵庫助史料などの著書。

=以上の記事に関してご関心のある方は、是非「系図纂要」をはじめ関係文献をご覧ください=

 

研究者:愛知県春日井市藤山台 

広瀬氏族研究所代表広瀬まさのり

 

 

 

                      広瀬家伝 ー33ー

 

                  真敬寺(岐阜県垂井町)