02 明け渡した領地を拝領とは呆れた話 | 広瀬氏族研究所発表の広瀬康述とその一族

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明け渡した領地を拝領とは呆れた話

すでに広瀬兵庫助史料と異なる部分について長浜城歴史博物館へは、その全てをご連絡いたしましたが、同館の展示解説とHP解説には事績の根幹に誤りがあります。
 

広瀬兵庫助に関して広瀬家史料に基づく内容と長浜城歴史博物館発表との相違は、次の通りです。

1. 1583年11月12日 広瀬兵庫助宛の知行書「広瀬文書」について
(1)広瀬兵庫助は秀吉から1583年11月12日、1500石の領地と報酬が付与されて美濃国広瀬村・坂本村、近江国新庄村・高山・甲津原・杉野の領地を支配しました。
 秀吉からの文書には「その方在所、広瀬2ヵ村・・・」とあり、在所とは実家(広瀬郷の2ヵ村)を指しています。
 美濃国広瀬郷(広瀬村・坂本村)が広瀬兵庫助の出身地(広瀬家当主が代々372年間受け継いできた領地)であることを秀吉が文書に記して証明しています。広瀬家史料には「その方在所、広瀬2カ村(坂本を併せ)・・・」との解説を付記しています。

(2)広瀬2ヵ村(坂本を併せ)とは、美濃国広瀬郷を構成する広瀬村・坂本村(広瀬村の隣接村)を指しています。広瀬村には北村、西村、羽根の3集落がありますが、村として機能していません(村のつく小集落があるということです)。
「その方在所、広瀬2ヵ村・・・」とは北村・西村の2集落ではなく、美濃国広瀬村・坂本村の2ヵ村です。広瀬村のうち北村・西村の2集落と坂本村を拝領したということではありません。

2.広瀬兵庫助が秀吉の家臣になるまでの事績について
(1)1572年6月13日、広瀬兵庫助の父の康則は、織田信長家臣・稲葉一鉄に攻められ第17代城主・康則は討死落城し、初代・広瀬康述から372年間にわたり代々受け継がれてきた美濃国広瀬郷の領地を明け渡しました。
広瀬家史料には「信長に内通していた広瀬城主・康則の老臣・東野大助の仕業だった。東野大助によって領地は明け渡され、城主・康則の子孫は土民となった」と記されています。信長に明け渡された領地を拝領と発表するのは、呆れた話です。

(2)広瀬家史料に明け渡した美濃国広瀬郷の領地は、その後9年間にわたり「横蔵寺の領地となった」と記されています。信長の命で谷汲村の横蔵寺に代官させたと思料します。
広瀬兵庫助が信長から拝領した記録はありません。父・康則(第17代城主)は信長の家臣に攻め落とされたのに、信長によって没収された領地を戦争功績もないのに次男・広瀬兵庫助が再び信長から拝領することは100%ありえないことです。後述の通り、1576年と1580年には信長軍と戦った記録があります。これを拝領したと発表しており、開いた口がふさがらない状態です。

(3)長浜城歴史博物館史料「日坂古文書」の記事にあるように、1574年の秀吉の長浜城築城に土塀用の良質の竹材調達で秀吉に協力しています。
1572年の康則の討死落城から2年後の1574年には落城による逃避先から広瀬村に戻り、隣村の日坂村の久賀氏から竹を調達し長浜城築城現場へ輸送して納入、秀吉に協力したのです。

(4)1576年に、広瀬兵庫助ら3兄弟(康宗・兵庫助・九助)は、本願寺(大坂石山)の顕如上人に拝謁、1572年6月の信長による第17代城主・広瀬康則の討死落城の無念を報告しました。
そして、信長との抗争が続く一向一揆側を支援する本願寺の戦士として出陣し信長に対抗して戦いました。

(5)1580年にも、広瀬兵庫助ら3兄弟は本願寺(大坂石山)に出陣し、信長軍に対抗しましたが一向一揆側の本願寺が信長軍に敗れました。

(6)1582年6月2日に「本能寺の変」が起こり、長浜城にいた秀吉家族側からの要請で広瀬兵庫助が事態の落ち着くまでの10数日間を警護し、その恩賞で秀吉の家臣となったのです。
当初は、美濃国広瀬村の広瀬の館まで迎え来て警護の予定でしたが、甲津原まで来て広瀬村に向かうには女性の足では峠越えが大変険しいという理由により広瀬の館まで向かうのを断念し、この甲津原に留まり秀吉家族らの避難の旅情を猿楽などの芸能で慰め警護に努めたことが広瀬家一族伝承の史料に詳しく記されています。

3.広瀬兵庫助の出身地について
広瀬兵庫助は、美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬) 第17代城主・広瀬康則の次男として1558年に誕生しました。1624年3月15日に66歳で死亡しています。
美濃国広瀬郷の広瀬家本家の出身です。美濃国広瀬村・坂本村の2ヵ村が広瀬郷を構成していました。飛騨国広瀬郷の広瀬家分家の出身との発表は誤りです

 

 

研究者:愛知県春日井市藤山台 

広瀬氏族研究所代表広瀬まさのり

 

 

 

 

 

 

 

広瀬家伝 ー02ー