08 二度にわたり信長に対抗して戦う | 広瀬氏族の広瀬康述とその一族

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40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。

二度にわたり信長に対抗して戦う

40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。

 

広瀬家に代々伝わる「広瀬兵庫助史料」を研究し始めた1975年頃には、兵庫助が長男・太郎に宛てた手紙の真意が全くつかめずにいました。

これが、2015年頃には、突然にその真意が理解できました。それは、40年の長年の歳月をかけた調査研究を経てようやく兵庫助の心をつかむことができたからです。

 武家に育ち1572年の父・康則の討ち死に落城・領地没収を身に染みて体験し、土民となった兵庫助はこの時12歳でしたが、武家の再興を念じて武家修行に旅立ちました。

1574年、兄弟の内でいち早く兵庫助は美濃国広瀬村へ戻り、運命の仕業といえる秀吉の長浜城築城に協力して広瀬村の隣村・日坂村の竹材を調達して現場へ届けました。


そして、1576年に兵庫助ら3兄弟は本願寺の顕如上人に拝謁し一向一揆を支援する本願寺の戦士として1576年と1580年の2度にわたり信長に対抗して戦うことになったのです。

 広瀬兵庫助は、秀吉の長浜城築城に協力の際に刀の所持が許されたと推測しますが、人を斬るための刀ではないと決心し秘蔵していたものと思われます。

 ところが、1576年の本願寺の戦士として信長軍と戦うこととなり、広瀬兵庫助一族と広瀬村人達の生きるための手段としてやむを得ず刀を握ることになったのです。

 これが、広瀬兵庫助から太郎宛の手紙の中に、しっかりと書き込まれ伝えられているのです。

 

研究者:愛知県春日井市藤山台 

広瀬氏族研究所代表広瀬まさのり

 

 

 

 

 

 

                     広瀬家伝 ー08ー