57 予定を変更し近江国甲津原に留まり警護 | 広瀬氏族研究所発表の広瀬康述とその一族

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40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。

予定を変更し近江国甲津原に留まり警護

広瀬氏族研究所代表です。40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。大切なことは、ご先祖様が何時もお守り頂いているから今日の私が生かされているということです。何よりもご先祖様への感謝の念が大切です。心豊かに行動します。

☆1582年6月 「本能寺の変」直後と広瀬兵庫助の活躍☆
 天正10年(1582年)6月2日の早朝、「本能寺の変」が起きました。
直後に、広瀬兵庫助が警護し治安安定までの約10日間を、近江国長浜城(滋賀県)から秀吉の母と夫人らの秀吉家族の避難を援助し、伊吹山奥への避難警護と慰労に尽くして近江国甲津原(滋賀県米原市)へと来た所で旧知の知人の館で約10日間の滞在をして警護と逃避行の慰労に努めました。事態収拾後に秀吉からの恩賞をうけて家臣になりました。

☆「本能寺の変」直後と広瀬兵庫助の活躍に関する文献の要点☆
 「豊鑑」「東浅井郡志」などの多くの文献では、長浜城から美濃国広瀬郷広瀬村(岐阜県揖斐川町坂内地区広瀬)の広瀬兵庫助の館へ向かい、秀吉家族を匿ったと記されていますが、現実は広瀬兵庫助の館へ向かう当初の予定を逃避行の途中の適切な判断で変更し、近江国甲津原(滋賀県米原市)に留まって警護と慰労に尽くしたのでした。

☆「広瀬兵庫助史料」により広瀬兵庫助の活躍をリアルに再現☆
 「広瀬兵庫助史料」(「広瀬家史料」の一部です。広瀬兵庫助の事績に関して子孫の寺院で過去帳と共に大切に伝承し続けている文書)に基づいて、リアルに綴られた広瀬兵庫助から伝承の生の記録から核心部分を詳細にお伝えします。
これが【歴史家も知らない広瀬兵庫助の歴史】です。


☆広瀬兵庫助の甲津原に留まって警護と慰労に尽くした詳細☆
「本能寺の変」の知らせが長浜城へ届いたのは、一日遅れの天正10年(1,582年)6月3日の早朝でした。この日の午前中に、長浜城から美濃国広瀬村の広瀬兵庫助の館を目指して秀吉家族の一行は出発し逃避行が始まりました。
秀吉の母(なか)と夫人(おね)、夫人の兄(木下家定)とその夫人、夫人の姉(やや)とその夫(浅野長政)の一行でした。

 秀吉の母と夫人は、下げ髪うちかけ姿で輿 (長柄でかつぐ乗り物)に乗り、秀吉夫人の兄・木下家定は武士の正装をした裃侍姿でした。
 戦国時代における一国一城の主の家族と親族の避難行動とはいえ、その服装は現在でいえば、ご婦人はドレス姿で、紳士はスーツ姿という正装だったのです。その心は、近江国から美濃国への亡命という様な神妙な心境だったに違いありません。

広瀬兵庫助は鎧武者姿で秀吉家族の一行を警護して、伊吹山(滋賀県と岐阜県の県境付近)山中奥深い甲津原へと来ましたが、ここから広瀬村の広瀬兵庫助の館へたどり着くには輿をおりて過酷な山道を徒歩で進み、新穂山の過酷で険しい峠を越えてから、更に5里(約20㎞)にある遠境にありました。5里(約20㎞)は、健康な成人の男子では平地を徒歩で5時間位はかかる距離です。ましてや、女性の足では10数時間はかかると思われる山路でした。

こうした様々な状況から安全な避難行動をとるための判断として、一行は甲津原で輿を止めて、この地にある兵庫助の知り合いの館で、広瀬兵庫助は専ら警護に努めれば恐らくは危難の心配はないとして甲津原に留まることを決断したのです。

 幸いにも甲津原には、猿楽(仮面をつけた滑稽な芸能で古来伝統の舞楽)の太夫(岐阜県揖斐川町春日の出身で甲津原に居住していた)が居り、滞在した館前で演じて貰って、逃避行の辛い旅情を慰労し、広瀬兵庫助が警護に専念しておもてなしをしたのです。

 幾日(約10日間)かの日々を慰労と警護に尽くして過ごし、しばらくして事無く済んだのです。秀吉は帰城後に直ぐにも広瀬兵庫助へ「甲津原文書」といわれる感状(功績を賞して主君から与えられる文書で、感謝状ではなく領地を与える知行書の性格をもつ文書)を広瀬兵庫助に手渡して功を労したのです。

研究者:愛知県春日井市藤山台 

広瀬氏族研究所代表広瀬まさのり

 

 

                    広瀬家伝 ー57ー

 

                 真敬寺(岐阜県垂井町)