清水克彦
5月19日 · プライバシー設定: 公開
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まえがき
7世紀以前の日本の歴史は、謎のヴェールに包まれている。
日本人は、古代の中国やヨーロッパのことは知っていても、
自分の国がどのように成立したかということについては、
確実な知識をもっていない。これは何故なのか。
倭の五王の謎
Ⅰ.中国の史書に登場する倭の五王
中国の史書によれば、
讚
珍
済
興
武
の5人の倭王が登場する。
この五王は、
倭国の王(天皇)の誰にあたるのか?
中国の史書によれば、
讚は
413年に東晋(317年~420年)に遺使貢献し、
421年に宋(420年~479年)の武帝によって倭国王に任命され、
425年と430年に宋に遺使貢献しているが、
438年4月には賛の弟の珍が宋に遺使貢献して安東将軍倭国王に
任命されているので、
讚は前年の437年に死亡したとみられる、
そうすると、
讚の
在位年代は413年以前から437年まで、
在位年数は25年以上
と推定される。
一方、
日本の『記紀』に書かれている倭王(天皇)の年代順は、
崇神(ミマキイリヒコ)
垂仁(イクメイリヒコ)
景行(オホタラシオシロワケ)
成務(ワカタラシヒコ)
仲哀(ナカツタラシヒコ)
神功(オキナガタラシヒメ)
武(ホムタ)
である。
そして、
倭王讚は、413年に東晋(317年~420年)に遺使貢献しており
彼の在位年代から考えて
倭王讚は
崇神(在位342年~379年)の孫
景行なのでは、
との推測が成り立つ。
この推測は、基本的には・・、当たっているのである。
以下で、その訳を解明していく。
ここでまず、
倭の五王について記述された中国の史書の記事全般を見てみ
る。
Ⅱ.倭の五王について記述された中国の史書の記事
413年 倭国、方物を献ず(『晋書』安帝紀)。
晋の安帝の時、倭王讚有り。遺使貢献す(『南史』倭国
伝)
421年 倭讚、万里修貢し、除授を賜る(『宋書』倭国伝)
425年 讚、司馬曹達を遣わし、方物を献ず(『宋書』文帝紀)
430年 正月、倭国王、遺使して、方物を献ず(『宋書』文帝紀)
438年 4月、倭王珍を安東将軍と為す(『宋書』文帝紀)
讚死す。弟珍立ち、遺使貢献す。
珍、使持節・都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・
安東大将軍・倭国王と自称して除正を求む。
詔して安東将軍・倭国王に除す。
又、倭随ら13人に平西・征虜・冠軍・輔国の将軍号の
除正を求めて許される (『宋書』倭国伝)
443年 倭国王済,遺使奉献す。
済を安東将軍・倭国王と為す (『宋書』倭国伝)
451年 7月、安東将軍倭王倭済の号を安東大将軍に進む(『宋書
』文帝紀)。
安東将軍・倭王済に使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕
韓国諸軍事六国諸軍事を加え、済の求めに応じて、23人
に軍・郡を授く(『宋書』倭国伝)
460年 12月、倭国、遺使して方物を献ず(『宋書』孝武帝紀)。
462年 3月、倭国王世子興を以て安東将軍・倭国王となす(『宋
書』孝武帝紀)。
477年 11月、倭国、遺使して方物を献ず(『宋書』順帝紀)。
478年 5月、倭国王武、遺使して方物を献ず。
武を使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓国諸軍事六国
諸軍事・安東大将軍・倭王に除す(『宋書』順帝紀・倭
国伝)。
479年 新除の使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓(慕韓)六国諸軍事
安東大将軍倭王武の号を進めて鎮東代将軍と為す(『南
斉書』倭国伝)。
502年 4月、鎮東代将軍倭王武の号を征東将軍に進む(『梁書』
武帝紀)。
ここで、
中国の史書による、倭の五王の在位年数(越年称元法)
をまとめてみると、
以下のようになる。
王 史書 元年 死亡年 在位年数
讚 晋書 ~413
宋書 437 丁丑 25年以上
珍 宋書 438 戊寅 442 壬午 5年
済 宋書 443 癸未 461 辛丑 19年
興 宋書 462 壬寅 477 丁巳 16年
武 宋書 478 戊午
梁書 502~ 25年以上
ところで、じつは
『日本書紀』も
倭の五王の
在位年代と
在位年数を
非公式に記録しており、
その記録内容は
中国の史書と見事なまでに整合しているのである。
Ⅲ.『日本書紀』と中国の史書の整合
『日本書紀』によれば、
倭王(天皇)は、
崇神
垂仁
景行(オホタラシオシロワケ、じつはイニシキイリヒコ)
成務
仲哀
興
武
であるが、
景行(オホタラシヒコ)は、
珍(ワカキニイリヒコ)の兄・讚(イニシキイリヒコ)を隠
すために
応神(昆支・武)の架空の分身ヤマトタケルの父として作ら
た架空の天皇である。
なぜなら
景行の和風諡号はオホタラシオシロワケであり、
タラシとワケという後世風の称号がついているうえ、
崇神王朝の皇子や皇女にみえるイリ・キという特徴のある
称号がみられないから
架空の天皇とみるべきである。
架空の天皇景行があとから割り込んできたために、
消されたのは、垂仁の子
イニシキイリヒコである。
『記紀』によれば、
イニシキイリヒコの母は
垂仁の大后ヒバスヒメであり、
イニシキイリヒコは景行の兄である。
イニシキイリヒコは「垂仁紀」に剣1000口を作って石上神
宮に収め、神宝とともにこれを管理したと記されている。
イニシキイリヒコは、崇神のミマキイリヒコ、垂仁のイク
メイリヒコにみられるような崇神王朝の特徴ともいえるイリ
の称号をもっているうえ、
大量の武器や神宝を管理するとい大きな権力を握っていた
そこで、
垂仁の後に即位したのはイニシキイリヒコであると考えられる
のである。
この結論を前提にして、
『日本書紀』は非公式に
讚(イニシキイリヒコ)の在位年数28年
珍(ワカキニイリヒコ)の在位年数5年
武(ホムタ)の在位年数29年、
と記録しており、
『宋書』などの中国の史書から推定在位年数と完全に整合し
『宋書』から推定される
済の在位年数19年と
興の在位年数16年も
『日本書紀』が編纂段階では非公式に記録されていた痕跡が認め
られるのである。
ここで、
整合する在位年代と在位年数とを、
『日本書紀』と
『宋書』『梁書』『晋書』などの中国の史書の記事から
推定していく。
まず、その整合例として
①珍(讚の弟『宋書』倭国伝に記載)の在位年代を、
『宋書』と『日本書紀』によって、見ていく
『宋書』文帝紀には元嘉15年(438年)4月に
「倭国王珍を以て安東将軍と為す」とある。
珍(ワカキニイリヒコ)が即位後の諸行事を終えて
宋へ使者を送り出すまでの期間と、
その使者が倭国の王都のあった大和から宋の都の建
康(現在の南京)に至るまでの期間を考慮すると、
前年の437年に讚(イニシキイリヒコ)が死亡し、
その直後に弟の珍(ワカキニイリヒコ)が即位したと
みられる。
そして、
『宋書』倭国伝に元嘉20年(443年)に
倭国王済遺使奉献して
安東将軍・倭国王とされたとあるところから、
珍(ワカキニイリヒコ)は前年の442年に死亡したとみられ
る。
そこで
『宋書』によれば
珍(ワカキニイリヒコ)
在位年代は438年~442年
在位年数は5年
と推定される。
この『宋書』から導かれた珍の在位時代は
『日本書紀』においても、非公式に記録されているのである。
『紀』編纂段階Ⅱ期(705年~711年)に、
珍(ワカキニイリヒコ)を隠すために
成務(ワカタラシヒコ)天皇が、
讚(イニシキイリヒコ)を隠すために、
景行(オホタラシヒコオシロワケ)天皇が
架空の天皇として創作されたが、
『日本書紀』の「成務紀」によると、
成務は景行が死亡した130年(庚午年)の翌年の
131年(辛未年)正月に即位している。
「成務紀」の記事
年次 干支 記事
元年 辛未 正月、即位。
2年 壬申 景行を埋葬する。
3年 癸酉 武内宿禰を大臣に任命する。天皇と「同日」
に生まれた竹内宿祢を寵愛する。
4年 甲戌 詔して、「国郡に首長、県邑に首を置こう」
という。
5年 乙亥 国郡に造長、県邑に稲置を置く。
48年 戊午 甥の仲哀を皇太子とする。
60年 庚午 6月、成務死亡。時に年107歳
この「成務紀」の
成務元年は131年(辛未年)
成務60年の
成務の死亡年は190年(庚午年)に
あたる。
「成務紀」には
元年(辛未年)から
5年(乙亥年)条までは
1年の空白もなく記事が載っているが、
5年(乙亥年)と48年(戊午年)条の間に42年という異常に長
い空白期間があり、
48年(戊午年)条の後にも11年の空白期間がある。
(1)このことと、
(2)「成務紀」の元年(辛未年)条から5年(乙亥年)条ま
での記事が連続していること、
(3)珍(ワカキニイリヒコ)の在位年数が『宋書』倭国伝
の記事から5年と推定されることを
考え合わせると
『日本書紀』が
珍(ワカキニイリヒコ)の在位年代を
438年(戊寅年)~442年(壬午年)として
非公式に記録していることに気付かされる。
次に
②讚の在位年代
中国の史書によれば、
讚は、先にものべたように、
413年に東晋(317年~420年)に遺使貢献し、
421年に宋(420年~479年)の武帝によって倭国王に任命され、
425年と430年に宋に遺使貢献しているが、
438年4月には賛の弟の珍が宋に遺使貢献して安東将軍倭国王に
任命されているので、
讚は前年の437年に死亡したとみられる、
そうすると、
讚の
在位年代は413年以前から437年まで、
在位年数は25年以上
と推定される。
つぎに、
『日本書紀』においては
先にのべたように、
景行(オホタラシヒコ)は、
珍(ワカキニイリヒコ)の兄・讚(イニシキイリヒコ)を隠す
ために
応神(昆支・武)の架空の分身ヤマトタケルの父として作ら
た架空の天皇である。
架空の天皇景行があとから割り込んできたために、
消されたのは
垂仁の子のイニシキイリヒコである。
そこで、
垂仁のあと即位したのはイニシキイリヒコであると考えられる。
『日本書紀』が
景行の名で記録した
讚(イニシキイリヒコ)の在位時代
年次 干支 記事
元年 辛未 7月、即位
2年 壬申 后を立てる
3年 癸酉 紀伊国に行く。
4年 甲戌 美濃に行く。
12年 壬午 筑紫に行く。
13年 癸未 襲の国を平定する。
17年 丁亥 日向国に行く。
18年 戊子 筑紫国を巡狩する。
19年 己丑 日向国より帰る。
20年 庚寅 アマテラスを祭る。
25年 乙未 武内宿禰を北陸・東方諸国に派遣する。
27年 丁酉 武内宿禰帰る。
28年 戊戌 ヤマトタケルを褒賞する。
40年 庚戌 ヤマトタケルの東征
51年 辛酉 成務立太子。武内宿禰・ヤマトタケル関係の記事
52年 壬戌 八坂入姫を后とする。
53年 癸亥 東国を巡視する。
54年 甲子 伊勢より大和に帰る。
55年 乙丑 ヒコサシマ東国で死亡。
56年 丙寅 ミモロワケに東国を統治させる。
57年 丁卯 諸国に田部・屯倉を設置。
58年 戊辰 近江の滋賀の高穴穂宮に行く。
60年 庚午 11月、景行死亡。
『宋書』の記事が指定した
讚の在位年数は、
「25年以上」だが
『日本書紀』は、
讚(イニシキイリヒコ)の在位年数を28年として
「景行紀」に非公式に記録している
と考えられる。
なぜなら、
「景行紀」の景行の即位年=元年は71年(辛未年)
景行の死亡年=景行60年は
130年(庚午年)
にあたるが、
表にみられるように
「景行紀」28年条と40年条の間に11年という長い空白期があり
40年条は主に景行の子ヤマトタケルに関する長大な記事である
そして
40年条の後に再び10年の空白期間があり
景行の虚構の死亡記事である60年(庚午年)条で終わる。
58年条は景行が近江の国の滋賀に3年居住していたという記事
だが、『古事記』には景行の近江居住の記事がないので、
58年条の記事も、
『紀』編纂段階Ⅲ期(712年~720年)に創作された記事とみ
られる。
このように
「景行紀」28年条の後に11年という長い空白期間があることか
ら
讚(イニシキイリヒコ)の在位年数は、
景行元年(辛未年)~景行28年(戊戌年)の28年と推定す
ることができるのである。
そして、
「成務紀」の非公式の記事と
『宋書』倭国伝の記事とから
讚(イニシキイリヒコ)が437年に死亡したと推定されるので
彼の在位年数を28年とすると、
越年称元法で
410年(庚戌年)が讚(イニシキイリヒコ)の即位年元年
その前年の409年(己酉年)が垂仁の死亡年となる。
次に
③済の在位年代について
中国の史書『宋書』によれば、
済の在位年代は443年~461年とされる。
すなわち
『宋書』孝武帝紀には、
460年(大明4年)に
倭国が遺使して、方物を献じたとあ
り、この時の倭国王は済とみられている。
462年(大明6年)3月に
倭国王済の世子興を以て、安東将軍と為すとあり
この時の使者は興が派遣したとみられるので、
前年の461年に済が死亡したとみられる。
そして、
越年称元法では443年が済(ホムタマワカ)の元年
とみられるので、
済(ホムタマワカ)の
在位年代は443年~461年
在位年数は19年
と推定される。
『古事記』ならびに『日本書紀』残る済の在位時代
『紀』編纂段階Ⅱ期(705年~711年)の稿本に基づいて書
かれた
『古事記』は
成務の死亡年を175年(乙卯年)
仲哀のの死亡年を「壬戌年」
と書いているので、
仲哀の在位年数を
176年(丙辰年)から
182年(壬戌年)までの
7年としているとみられる。
仲哀の在位年数がわずか7年とされた主な理由は、
仲哀の后の神功皇后が、
239年に魏に朝貢した
「倭の女王」卑弥呼とその宗女台与(とよ)
とされていたためである。
『日本書紀』に残る済の在位年数の痕跡
神功皇后の
摂政在位年を201年
死亡年を269年
応神天皇の即位年を270年
としているが、
これは『紀』編纂段階Ⅲ期に初めに決定したもの
とみられる。
済(ホムタマワカ)の在位年数19年は、
Ⅲ期初めに決定した「神功紀」の
神功皇后の公式の在位年数69年の中に入れられたと推定
される。
というのは、
「原珍紀」は190年(庚午年)で
「原済紀」は250年(庚午年)で
「神功紀」は269年(己丑年)で終わる。
269年-190年=79年だが、
この79年は60年(干支1運)+19年で
19年は
済(ホムタマワカ)の在位年数19年を
非公式に記録したものと考えられるからである。
つまり、
仲哀の本体である
済(ホムタマワカ)の在位年数19年は、
「仲哀紀」ではなく
「神功紀」に非公式に記録されているわけだが、
これは、藤原不比等が、
済(ホムタマワカ)に対して強い反感を抱いていた
ためである。
そして、
珍(ワカキニイリヒコ)の死亡年が442年(壬午年)だから、
『日本書紀』は
済(ホムタマワカ)の在位年数を、
443年(癸未年)から
461年(辛丑年)までの
19年として
「神功紀」に非公式に記録していることになる。
④興の在位年代
『宋書』の記事から得られる興の在位年代
『宋書』孝武帝紀には、
462年(大明6年)3月に
倭国王済の世子興を以て、安東将軍と為す
『宋書』順帝紀に
昇明元年(477年)条11月己酉、
倭国、遺使して方物を献ず
昇明2年(478年)5月居戊午、
倭国王武、遺使して方物を献ず。
武を以て安東大将軍と為す
『宋書』倭国伝には
興死す。弟武立つ。
順帝の昇明2年、遺使上表して曰く とあって
その上表文に
臣が亡済奄(にわか)に父兄を喪(うしな)いとあるので、
武の兄の興は急死したとみられる。
当時、高句麗と倭国の関係は険悪だったため、
倭国の王都から百済を経て宋の都・建都までいくのに、
最短でも6か月はかかったとみられるので、
興は
前年の477年前半に、
宋に使者を送り出した後に急死し、
武は477年の後半に即位したと考えられる。
そこで、
興の
在位時代は462年~477年
在位年数は16年と推定される。
『宋書』の記事から得られた、興の在位年数16年は
『日本書紀』の「神功紀」の記事において
その痕跡が残っている。
なぜなら、
「神功紀」の記事は以下のごとくであるが、
年次 干支 記事
元年 辛己 2月、摂政開始
2年 壬午 仲哀を埋葬する。
3年 癸未 応神を皇太子とする。
磐余を都とする。
5年 乙酉 葛城襲津彦、新羅を討つ。
13年 癸巳 太子、角鹿のケヒ大神を拝み、名を交換。
39年 己未 「倭の女王」の遺使朝献を記する『魏志』の
記事引用。
40年 庚申 『魏志』の記事引用。
43年 癸亥 『魏志』の記事引用。
46年 丙寅 百済と修好。
47年 丁卯 百済・新羅が朝貢。
49年 己巳 新羅と加羅諸国を平定。百済の肖古王と
王子貴須が倭軍を歓迎。
50年 庚午 百済と修好。
51年 辛未 百済朝貢。
52年 壬申 百済、倭王に七支刀を送る。
55年 乙亥 百済肖古王死亡。
56年 丙子 百済貴須王即位。
62年 壬午 新羅を討つ。
64年 甲申 百済貴須王が死亡、枕流王即位。
65年 乙酉 百済枕流王が死に、叔父辰斯王が即位。
66年 丙戌 「倭の女王」の遺使を記する『晋起居注』の
記事引用。
69年 己丑 4月、神具皇后死亡
『紀』編纂段階Ⅱ期(705年~711年)に
神功の摂政期間は
摂政元年(201年。辛己年)から
摂政69年(269年。己丑年)までの
69年とされたが、
干支からみて
「神功紀」51年(辛未年。251年)が
「原興紀」の元年(辛未年。251年)、
神功摂政66年(丙戌年)が
「原興紀」の16年(丙戌年)にあたる。
そして、
摂政67年・68年には記事が無く
「神功紀」69年(269年。己丑年)4月条の神功の
死亡記事は虚構記事とみていいので、
「神功紀」摂政51年~16年までの16年が
興の在位年数の痕跡
とみることができる。
また、前述のように、
「神功紀」摂政51年(辛未年)~69年(己丑年)の19年は
済(ホムタマワカ)の在位年数を非公式に記録している。
「景行紀」「成務紀」などに使用された非公式の記録方式が
「神功紀」に使用されていないことは、
済(ホムタマワカ)の場合と同じく、
藤原不比等が興に対して激しい反感を持っていたことを示し
ている。
そして、
済(ホムタマワカ)の死亡年が461年(辛丑年)だから
『日本書紀』は、興の在位年代を
462年(壬寅年)から477年(丁巳年)までの
16年として
「神功紀」に非公式に記録していることになる。
ここで、
応神が大王(天皇)となるに関与した義父・済と義兄・興が
『記紀』にきっちり記述されていない、
ということを気にされる読者もおられるでしょう。
じつは、
藤原不比等は応神を憎んでいた
それで
応神が大王(天皇)となるに関与した
済と興に反感をもっていたのです。
最後に
⑤武の在位年代について
中国の史書によると、
478年 5月、倭国王武、遺使して方物を献ず。
武を使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓国諸軍事六国
諸軍事・安東大将軍・倭王に除す(『宋書』順帝紀・倭
国伝)。
479年 新除の使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓(慕韓)六国諸軍事
安東大将軍倭王武の号を進めて鎮東代将軍と為す(『南
斉書』倭国伝)。
502年 4月、鎮東代将軍倭王武の号を征東将軍に進む(『梁書』
武帝紀)。
このように、
『宋書』『梁書』によって
倭王武の在位年代を478年から502年以後までとみると、
倭王武の在位時代は応神の在位時代と重なる。
すなわち、
500年ごろ完成したとみられる
誉田山古墳は応神の寿墓と考えられるが、
10年以上と推定されるその工期からみて、
応神が480年代には王位についていたことは確実である。
そして、
上記の『宋書』『梁書』によれば、
このころはまた倭王武が在位した時代でもある。
そこで、
480年代は、
武の在位時代であるとともに
応神の在位時代ということになる。
応神と武が、
480年代から500年ごろまで
ともに倭国王であったということは、
とりもなおさず
両者が同一人物であったことを意味する。
ところで、
崇神
垂仁
景行
仲哀
興
と続く王朝は崇神王朝であった。
そこで、
興を継承した応神が
崇神王朝の王とは
変だという疑問が湧いてくるかもしれない。
しかし、
応神は
崇神王朝の入り婿であった。
このことは、
『古事記』応神条に
ホムタ(応神)は
彼の父ホムタマワカの娘
タカギノイリヒメ
ナカツヒメ
オトヒメに
娶(みあい)して
生ませた子であるとし
ホムタマワカは
イホキイリヒコの子である
と書かれている。
したがって
倭王武=応神とすることは、
不合理ではないのである。
なお、
イホキイリヒコは崇神王朝に属するホムタマワカの息子であ
りながら、
なにかの事情で王位に就けなかったのであろう。
本稿の最後に、
崇神王朝から応神王朝に至る系図を載せています。
なお、
武を雄略天皇だと解する説は有力であるが、
これは成立し得ない。
なぜなら、
雄略の在位年数は
『日本書紀』が公式に記録している
457年から479年までの23年間だから
武の478年から502年以後までの在位年数25年以上と
大きく違っているからである。
では次に、
我々は、なぜ
応神が眠っているとされる誉田山古墳は
なぜ500年ごろに完成したと推定するか。
それは
須恵器の生産が開始された時期が500年ごろ
とみるからである。
京都芸術短期大学の田辺昭三によれば、
「埴輪にも赤褐色の土師質埴輪と
青灰色の須恵質があるが、
大阪府百舌古墳群の
石塚丘古墳(伝履中陵、墳丘長365m)の埴輪は
土師質だが
誉田山古墳の埴輪には
土師質と
須恵器が混在している。
また、
大山古墳(伝仁徳陵)の埴輪は、
どれも須恵質埴輪である。
須恵器が生産されはじめた年代を5世紀の中ごろとすれば、
須恵質埴輪もほぼその年代と前後して現れたとみてよい。
とすれば、
土師質埴輪と須恵質埴輪が混在する応神陵古墳の築造年代は、
5世紀の中ごろから後半期のはじめに位置づけることができる
のではないかと考える。」
田辺昭三は、
須恵器の生産が開始された時期を5世紀中ごろとすることによっ
て、
誉田山古墳(応神陵)の年代を
5世紀中ごろから後半の初めに位置づけているが、
彼が
須恵器の生産開始の時期を
5世紀中ごろとする
主な根拠は何か。
埼玉県行田(ぎょうだ)市稲荷山古墳から、TK47型式とみられる須恵器が出土しています。
そして、
稲荷山古墳から出土した
埼玉県行田(ぎょうだ)市稲荷山古墳から出土した
鉄剣の銘文には、
この鉄剣が制作された年として
「辛亥年」という文字が刻まれている。
田辺昭三は
この辛亥年を471年とみて、
TK47型式と
稲荷山古墳の
年代を500年ごろとしているのです。
そして、
須恵器の型式編年は細かく出来ているので
このTK47型式から
50年くらい遡って
最初に生産されたのがTK73型式須恵器であり、
TK73型式が初めて出土する誉田山古墳(応神陵)の年代を
5世紀中ごろとするのである。
田辺昭三は、
辛亥年を531年とみれば、
TK47型式と
稲荷山古墳の
年代は
6世紀の中葉ごろに下がると書いています。
この見解にしたがうと
誉田山古墳(応神陵)の年代は500年ごろとなります。
「辛亥年」
471年説と
531年説は
どちらが妥当か
「辛亥年」=471年説は、
合理的根拠があるわけでなく、
文献史学者や考古学者の多数意見にすぎない。
稲荷山古墳鉄剣銘にみえる
「獲加多支鹵大王」のワカタケルを、
『記紀』にみえる雄略の名
「大長谷若建(おおはつせわかたけ)」
「大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)」の
ワカタケと同じとして、
両者を同一人物とみなし、
さらに、
「幼武」の武は
倭王武の名と一致するとみて、
雄略=ワカタケル=倭王武とする。
そして、
『日本書紀』が雄略の在位を年代を
456年~479年としていることから、
「辛亥年」を471年とみるのである。
だが、
ワカタケル大王の宮は「斯鬼(しき)宮」であるが、
雄略の宮は「泊瀬朝倉(はつせのあさくら)宮」であって
シキノ宮ではない。
「斯鬼(しき)宮」は、
現在の大阪府藤井寺市惣社付近、
なわち
河内の志紀の地にあった欽明の「シキノ宮」とみられる。
我々は、
「辛亥年」は531年と考えます。
理由
稲荷山鉄剣の銘文には
「獲加多支鹵大王」とか「獲居(わけ)」とかのように
「獲」の字が多く使用されていますが
どれも草冠が省略された異体文字です。
井上秀雄によると
草冠がない「獲」の異体文字の使用例は
中国の東魏(とうぎ。534年~550年)の墓誌(636年のも
の)から始まり、6世紀の中葉に少し使用されている。
朝鮮では新羅(しらぎ)の碑文(568年)のものにみえるだ
けです。
そこで、
日本列島にこの異字体が入ってきたのは、
どんなに早くみても6世紀になってからと思われるので、
471年説は成り立ちません。
したがって、
531年説が妥当ということになります。
531年説が妥当だとする理由はほかにも沢山ありますが、
あまりも長くなるので省略します。
「辛亥年」=531年説が妥当だとすると、
TK47型式と
稲荷山古墳の
年代は
6世紀の中葉ごろとなり、
そこから50年くらい遡及した
500年ごろが、
初めて生産された須恵器TK73型式と
武=応神の誉田山古墳の年代となるのです。
本稿の最後に須恵器の年表を掲載しています。
『日本書紀』に非公式に記録されている倭の五王の在位時代
倭王 天皇記 元年 死亡年 在位年数
讚 景行紀 410年庚戌 437年丁丑 28年
珍 成務紀 438年戊寅 442年壬午 5年
済 仲哀紀 443年癸未 461年辛丑 19年
興 神功紀 462年壬寅 477年丁巳 16年
武 応神紀 478年戊午
武烈紀 506年丙戌 29年
次に、それでは
Ⅳ.『日本書紀』が、倭の五王と宋の交渉について何も書いていな
いのはなぜか。
これは、
通説の言うように、国家としての対面を考えてのこ
とではない。
なぜなら、
『日本書紀』は、神功皇后を卑弥呼に擬して、
『魏志』倭人伝や『晋起居注』を引用し、
神功が魏や晋に朝貢したようにみせかけている。
『日本書紀』が、倭の五王と宋の交渉について何も書いていな
いのは
5世紀における
倭国の王朝の交替という
重大な史実を隠すため
なのである。
なぜ倭国は王朝交代の史実を隠したのか?
それは、
倭国建国といえるほどの大実績のある応神天皇は
実は百済の昆支王子であった。
昆支王子は倭国崇神王朝に入り婿したのである。
ところが、
百済は、660年に唐・新羅の連合軍に滅ぼされ、
663年の百済の再興を賭けての白村江の戦いにおいても倭国・百済の連合軍は大敗した。
その結果、根無し草となった天皇家が倭国を支配しているという甚だ体裁の悪い結果となった。
そこで、
天皇家の名誉維持のため、
倭国は太初から天皇家が支配していたという、
万世一系天皇支配の理念が創り出された。
ここにおいて、
王朝交替は存在し得ないということになる。
これこそ、
『日本書紀』に、倭の五王と宋の交渉について書かれていな
い原因なのである。
440年(庚辰年)に生まれた百済の王子・昆支は、
462年倭国に来て、崇神王朝の入り婿となり、
義兄・興の死んだ後、478年に即位して、倭国王・武を名乗り、
5月に宋に遣使貢献して安東大将軍・倭王に任命された。
武は応神であり、その在位年代は478年~506年(謎42 43 )。
宇佐八幡宮の言い伝えによれば、「応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた」とされているが、その具体的内容は次のようなものです。
(1) 応神(昆支・武)は、河内地方に従来の稲作技術からは導き出しえない新たな農業・土木・製鉄技術を身につけた百済系集団を、大量渡来させた。
続いて、継体(在位507年~530年)、欽明=蘇我稲目(在位531年~571年)、用明=蘇我馬子(在位586年~626年 )も
百済系集団を、大量渡来させました。
(2) 大量渡来させた百済系集団の技術とパワーを用いて淀川や大和川に堤防を築いて洪水を防ぐと共に、後背地に乾田に変える水路を作り、
羽曳野丘陵地帯に灌漑用水を供給するための貯水池(狭山池など)を多数築きます。
このようにして百済系倭国の産業基盤が築かれ、
新しい国つくりがなされたのです。
(3)そして、これらの大土木工事の延長上にあるのが、
河内にある
応神天皇稜や
仁徳天皇稜の築造です。
我々は、仁徳は継体の虚像であり、仁徳稜には継体天皇が葬られていると考えます(謎17 、謎18前編 ,中編 ,後編 、謎19前編 , 後編 )。
応神は、大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりの端緒を開いた実績により、
①偉大な始祖王として尊敬され、
②建国神として信仰の対象とまでなりました。謎81
その応神は
実は百済の王子・昆支だったのです。
従って
天皇家のルーツは百済であると言って差し支えないでしょう。
ところが、
その百済が660年に唐・新羅の連合軍に滅ぼされました。
百済の再興を賭けた663年の白村江の戦いでも倭国と百済の 連合軍は大敗し(謎1 )、
ついに百済は朝鮮半島から消え去ってしまいます。
百済の滅亡は、百済の王子・昆支(応神・武)を始祖王とする天皇家にも深刻な影響を及ぼしました。
根無し草となった天皇家が、日本を支配しているというはなはだ体裁の悪い結果となったのです・・。
そこで、
天皇家が日本を支配するための正統性の理念が必要となりました。
そのために生み出されたのが、
天皇家は太初より日本国を支配しているという
万世一系天皇支配論なのです。
天皇家が太初から日本列島を支配していたとし、
王朝交替などは
なかったことにしたのです。
崇神王朝に
百済の昆支王子が入り婿し、
後に応神天皇となって
王朝交代があったことを
隠すために
中国の史書にみえる 讚・珍・済・興・武の虚像である
崇神系の倭の五王
景行・成務・仲哀・興・武が創られたのです。
『日本書紀』は、
このように重大な史実を隠しておきながら
一方では、
百済の昆支王子が
崇神王朝の倭王家へ
婿入りしたことを知らせているのです。
長くなりますがその経過は以下の如くです。
『日本書紀』「雄略紀」5年(461年)4月条に、
高句麗の侵攻を心配していた
百済の加須利君(かすりのきし。蓋鹵こうろ王である)が、
弟の軍君(こにきし)に、
「お前は日本に行って天皇にお仕えしなさい」と命じた。
軍君は
「王の命にそむくことはできません。
どうか王の妃を賜って、
そのあとでわたしを日本に派遣してください」と答えた。
加須利君は、
そこで妊娠している妃を軍君の妻とさせ、
「わたしの妊娠している妃は、もう産み月にあたっている。
もし途中で出産したら、一隻の船に乗せて、どこからでもい
いから、すぐに国に送り返してくれ」といった。
ついに、二人は別れを告げ、軍君は日本に派遣された。
6月の1日に、
妊娠していた妃が、加須利君の言葉通りに、
筑紫の各羅嶋(かからのしま)で出産した。
そこで、この子を嶋君(せまきし)と名付けた。
軍君は、一隻の船で嶋君を国に送った。
これを武寧王という。
百済人は、この嶋を主嶋(にむりせま)と呼ぶ。
7月に軍君は京に入った。すでに5人の子がいた。
(『百済新撰』はつぎのようにいう。辛丑年に、蓋鹵王が、弟
の昆支を派遣して、大倭に行かせ、天皇に仕えさせた。兄の
王が日本と修好するためである。)
「武烈紀」4年(502年)条にも
これと同様な話がのっているが、
その記事では、
武寧王は昆支の子とされている。
蓋鹵王の子をはらんでいる妃を昆支がわざわざ妻にしたい
と願い出て、その妃を臨月に船に乗せて日本へ向かったとす
る「雄略紀」の記事はきわめて不自然である。
そこで、
武寧王を昆支の子とする『百済新撰』の記事の
ほうが信頼できる。
こうしたことなどから、
「雄略紀」の昆支渡来記事は、
史実性を疑われていた。
ところが、1971年、韓国で、
この記事の史実性を見直されるような
考古学的に重要な発見があった。
この年、百済の二度目の王都であった公州(コンジュ)で
武寧王の墳墓が発見されたのである。
同古墳から出土した墓誌の銘文には、
寧東大将軍百済斯麻王年六十二歳
癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩
(訳文)
寧東大将軍の百済の斯麻王は年齢六十二歳で、
癸卯年(523年)の五月七日に崩御した。
と書かれていた。
寧東大将軍は、521年に武寧王が中国南朝の梁から与えられ
た軍号である。
この銘文から、
武寧王が
523年に62歳で死んだこと
諱(いみな)が斯麻であったことが分かったが、
「継体紀」17年(523年)条には
「夏五月に、百済の王武寧が薨じた」とあり、
『三国史記』百済本紀武寧王23年条にも
「夏五月に、王が薨じた」と記されていて、
武寧王の死亡年に関して、
『日本書紀』と
『三国史記』の
記事が正確であることが判明した。
そして、
武寧王は523年に62歳で死亡しているから、
王の生年は462年ということになり、
昆支の来日と武寧王の出生を461年とする
「雄略紀」五年条の記事は
1年の誤差しかないことも判明した。
この記事が、
武寧王の生年をこのように正確に伝えていることから、
この時期に昆支が渡来したことも史実と
考えられるようになったのである。
ところで、
済は461年に
昆支が倭国に来る前に死亡してしまった。
そこで、
済の息子興が462年に即位して
父の遺志を継ぎ、
昆支を妹の仲(ナカツ)姫と結婚させ、
加羅系(崇神系)倭国の左賢王
にしたとみられます。
さらに、
477年前半に義兄の興が急死したので、
(おそらくオシクマ王に暗殺された)
昆支は477年後半に、
応神大王として即位したと考えられます。
『宋書倭国伝』に「興死す。弟武立つ」とあります。
昆支が倭国の王・応神となったと推定される根拠は何ですか?
「雄略記」5年条の記事には、
昆支は「軍君(コニキシ)」と書かれていますが、
『周書』百済伝には、
百済では人民は王のことを鞬吉支(コンキシ)と呼んでお
り
鞬吉支は中国語の「王」にあたるとあります。
金思燁によると、
コニキシは、
このコンキシのコンがコニになまった語であり、
『古事記』の「応神天皇条」には
百済国主(コニキシ)照古王、新羅国主(コニキシ)の例が
あります。
このように、
コニキシが「国王」を意味する称号であるとすれば
『日本書紀』に
昆支がコニキシと書かれているのは、
昆支が倭国王であったからと考えられます。
さらに、
百済では文周王が王位に就きましたから、
昆支は倭国の国王となったと考えざるをえません。
他の百済の王子達の場合、
倭国から百済への帰国が必ず記載されているのに、
昆支が百済に帰国した記事がないことはその補強材料となるで
しょう。
『古事記』応神条と「神功紀」に、
オシクマ王の反乱の記事が載っている。
オシクマ王は
興の異母兄で
応神の義兄であるとみられる。
477年に興が急死した(おそらくオシクマ王に暗殺された)
ので、
応神(昆支・武)は、477年9月ごろに倭国に戻り
10月ごろには、オシクマ王の反乱を鎮めることが
できたとみられる。
応神(昆支・武)が短期間に反乱を鎮圧できたのは、
興の王子などの、多くの崇神系倭国(前期百済系倭国)
の有力な王族の協力を得たためである。
オシクマ王の反乱を鎮めた応神は
478年には
崇神王朝(前期百済系倭国)の大王(天皇)となり
491年には
後期百済系倭国の大王(天皇)となった。
そして、
応神(昆支・武)が倭国の大王(天皇)となった
5世紀末ごろから
河内や大和の台地と平野が急激に開拓され始めた。
すなわち
応神(昆支・武)は
河内地方の開拓の先鞭をつけたのです。
河内地方の弥生いらいの稲作を大変革すべく
淀川や大和川に堤防を築いて洪水を防ぐとともに
背後地を乾田にかえる水路をつくり、
羽曳野丘陵地帯に灌漑用水を供給するための貯水池(狭山
池)などを多数築いた。
と同時に、
開墾用の新たな鍬や鋤・鋸切を大量に供給しなければならな
い。
こうしたものは従来の稲作技術からは導き出しえないものであ
った。
ここにおいて、
応神(昆支・武)は
新たな農業・土木・製鉄技術を身につけた大量の百済系集団
を渡来させたのである。
そして、
5世紀末ごろから河内・大和両地方の原野や大地を開拓し始め
た集団が
百済系であることは、かれらが残した墳墓から推定できる。
5世紀後半までの墳墓は、主として竪穴式石室や粘土槨構造の
ものであったが、
6世紀前半になると、近畿地方に新しタイプの墳墓、
すなわち、
横穴式石室墳や
木棺直葬墳(もっかんじきそうふん。木棺を直接土の中に埋めた
墳墓)が出現する。
横穴式石室の墳墓は、内部に広い空間があり、
須恵器などが埋葬され、
カマドや甑(こしき。コメなどを蒸すに使う器。底に孔がうが
たれている)などの炊事用の道具やその模型が入れられ
ることもあった。
文史衛は、これらの副葬品は、
死者がが死んだ後でも生前と同じような生活を続けるという
死後の世界についての新しい考え方を反映したものであり、
このような新しい考え方や埋葬の儀礼を反映した横穴式石室の
墳墓は、
故国でこのような墓制をつくった朝鮮移住民によって
もたらされたものであると指摘している。
横穴式石室や木棺直葬墳の墳墓は百済系渡来集団の墳墓である。
そして、
6世紀前半には、河内地方の丘陵地帯に
百済系渡来集団がつくった横穴式石室や木棺直葬墳が現れる
が、
6世紀中葉以降これらの墳墓は爆発的に増加し、
多数の群衆墳(狭い地域に密集してつくられた古墳群で、小型
の円墳か方墳を主にしている)を形成するようになる。
すなわち、
河内平野の東端、生駒・二上(にじょう)山系の西麓には
山畑古墳群・高安千塚・平尾山千塚・飛鳥千塚・一須賀古墳
群
和泉には、
陶器千塚・信太(しのだ)千塚等の古墳群が出現する。
この百済系集団の大量渡来は
5世紀末から始まり
6世紀第2四半期ごろから6世紀までがピークとなっており、
この期間(古墳時代)の渡来者は
ごく控えめにみても100万人に近いと推定される(埴原和郎)。
この百済人の大量渡来と河内地方や大和の開拓は、
応神が先鞭をつけ、
継体・欽明・用明が継承した。
宇佐八幡宮の言い伝え
「応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国つくりをさ
れた」とは、このことを指すのである。
この大きな実績によって、
応神は
倭国建国の祖と尊敬され
建国神として崇拝されるようになり
超巨大古墳・誉田山古墳に眠っているのである。
ところが、
660年に唐・新羅の連合軍に百済が滅ぼされ、
663年の百済の再興を賭けた白村江の戦いでも倭国は大敗した。
そこで、
天皇家の名誉維持のために、
百済とは関わりなく太初より倭国を支配しているという
万世一系天皇支配の理念を創り出された。
『日本書紀』において、
万世一系天皇支配の理念を維持するために
5世紀末における倭国での
百済の王子昆支(応神)による
後期百済系倭国王朝による王朝変更を隠したのである。
そのために、『記紀』においては、
中国の史書にみえる 讚・珍・済・興・武
が隠され、
讚の虚像 景行
珍の虚像 成務
済の虚像 仲哀
を創り出された。
そこで、
倭の五王の謎が生じたのです。
先に述べたように
応神(昆支・武)は、崇神王朝の済に入り婿し、
477年にオシクマ王の反乱を鎮めて
倭国の大王(天皇)になったのです。
ところで
『日本書紀』編纂した藤原不比等はオシクマ王を祖とする物部連の支族とみられる。
だから、
不比等は
万世一系天皇支配の理念からも
オシクマ王を滅ぼした応神(昆支・武)への恨みからも
昆支(応神)による崇神王朝からの王朝交替の史実を
認めたくなかった。
しかし、
応神の実績はひろく人民に知れ渡っており、
応神は倭国において建国の祖と讃えられ
建国神となって人々に崇拝されているほどの
大王(天皇)であるから、
彼を無視するわけにはいかない。
そこで、
藤原不比等は
昆支(応神・武)の渡来の史実を
架空の天皇「雄略」の条で、記載することにしたのです。
『日本書紀』の編纂を主宰した藤原不比等は、
継体系(敏達系)天皇家と藤原氏にとって不利な史実を
公式にはさまざまな方法で隠蔽したが、
その隠蔽した不利な史実のうち一部を
非公式にこれまたさまざまな方法で記録するという、
類まれなことをやってのけた。
すなわちここでは、
応神(昆支・武)の出生を
公式には、
「神功紀」で
応神は神功の子であると隠蔽しながら
非公式には、
架空の天皇「雄略」の条の中で、
百済の蓋鹵王の弟・昆支(後の応神)が
百済から渡来したと
記録しているのです。
石渡信一郎著 新訂倭の五王の秘密
百済から来た応神天皇 より引用。
アカデミックな通説が、
それらしい解答を見い出すことの出来ないでいる
「倭の五王の謎」を
解明したことは、
石渡信一郎の不滅の功績である。
本稿は、
この不滅の功績を讃えて
石渡信一郎氏に捧げるものである。
2022年6月18日
清水克彦



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