南の島に住みたい
世界一周がしたい
資産家になり、運用利益だけで食べていきたい
などなど、例えばそういう夢があるとします。
例えば私の場合ですと、お金に不自由しないならタヒチのボラボラ島に住みたいな~とか、世界中ちょこちょこ引越しをして歩きたいな~とか思ってます。
そういう生活、夢のようですよね。
ホント憧れてしまします。
ただし、それって本当に自分がしたい事なんでしょうか?
苫米地さんの「脳を味方につける生き方」を読んでいて、そういう漠然とした夢が本当に自分の夢なのか、本当に自分のやりたい事なのかとても考えさせられました。
苫米地さん曰く、例えば南の島に行って実際に住んだとしても、多くの日本人は飽きて帰って来るんだそうですね。
また資産家になって利回りで食べている人もいるそうですが、日々の株価の動きや運用成績が気になってチェックするので、結局働いているのと変わらないとのこと。
今まで漠然と自分が持っていた夢って、叶ってしばらくした後の事をイメージすると、けっこうつまらなかったりするんじゃないでしょうか。
そしてそうなると、次に人は何を求めるのでしょう?
私は「刺激」だと思うんですよね。
何の不自由も無い生活がたいくつなので、きっと刺激を求めると思うんです。
そしてその刺激とはつまり、程度のいい困難です。
人は不自由の無い生活の後は困難を求めるようになるのではないでしょうか。
そう考えると、私が思うに、人間って実はわりと困難が好きなのかなと思うんです。
何の不自由もなく、やることなす事みんなすんなりうまく行き、何でもかんでも自由自在になったとしますよね。
そういうのって本当に幸せなんでしょうか?
リアルにその状態を想像してみますと、たぶんすごく退屈な日常だと思うし、つまらないと思います。
つまり、きっと人間は本能的に困難が好きなんですよ。
なぜなら、それを達成した後にドーパミンという名の脳内麻薬が発生されるから。
麻薬ですからね、きっとそれ欲しさにある程度の困難を求めるんです。
ジャンキーみたいなものですよ。
ただし、そこは生物ですから、自然と自分でクリアできる困難とできない困難を振り分けてると思います。
苫米地さんのいうスコトーマが働き、その困難を見え無くしている状態ではないでしょうか。
「叶う夢しか胸に宿らない」と言いますが、きっとそれは本当なのだと思います。
私が今回何が言いたいのかといいますと、どうせ本能的に困難を求めているのなら、本脳には逆らえないので困難を受け入れるしかない。
受け入れるしかないのなら、どうせなら困難を楽しめないかなと思うんです。
クリス岡崎さんのスピードコーチングで、私は物の見方が変わると人生が変わると教えてもらいました。
人が困難を求める生き物ならば、その困難に対する見方を変えるだけで人生楽しくなるのかな~と思います。
自由の果てに困難を求めるのであれば、人は本能的に困難を求める生き物である。
本能が求めるのであればもう仕方がない。受け入れるしかない。
どうせ受け入れるなら、いっそのこと楽しんで困難を受け入れられないだろうか。
物の見方を変えるならば、きっとできるはず。
そのためのコーチングでもあります。
苫米地さんの本を読みながらそう感じた黒瀧でした。