縛り地蔵

伊東肥前の碑(七十郎の祖父の墓)

綱村公が贈った歌





政宗公の祖母・久保姫や、七十郎が眠る裁松院



七十郎の墓

伊東七十郎重孝は、工藤祐経の次男、安積伊東祐長の子孫にあたり、郡山の合戦で政宗・小十郎を庇い壮烈な戦死を遂げた、伊東肥前重信の孫にあたる。
重信の嫡男重綱の養子・重義は、仙台藩奉行(家老)のひとりとして重用されていた。
 重義の妻は、重信の次男、重村の娘で、その弟が、七十郎重孝だった。

伊達家を乗っ取ろうと企む、伊達兵部宗勝が伊東一族を軽視したことに激怒した七十郎は、他にも、122名もの武士が切腹や降格・追放されたこと(その大半は、無実または微罪、中には40年前の罪を蒸し返された者も)に対する怒りもあわせ、甥の采女重門(重義の子)とともに、兵部を討ち取ろうと計画、家臣の裏切りによって、処刑されてしまった。
 その時、「俺は3年以内に兵部を滅ぼしてみせるぞ」と叫び、あおむけに倒れ、介錯人は発狂したという。
そして、実際に3年後、原田甲斐が刃傷事件をおこしたことがきっかけで、兵部は島流しになり、腹心の渡辺金兵衛と今村善太夫も獄死し、事件は解決された。

 地蔵は、「縛り地蔵」と言って、刑場跡に建立されたもの。縄で巻かれているのは、人々の苦しみや罪を身代りに背負ってくれると信じられているからである。
 墓石は裁松院にある。このお寺は、政宗公の祖母・久保姫の菩提寺でもある。
久保姫は、晴宗公に拉致されて正室となったのだった。
しかし、晴宗は一度たりとも浮気せず、妻との間だけに次々と子を挙げた。
長男の親隆は、母の実家の岩城氏を継いだ。子孫は、岩谷堂に住んだ。
次男が輝宗公で、政宗公の父である。三男の留守政景は、利府に住み、政宗の重臣かつ、後見人として若い主君を補佐した、三傑(小十郎・成実・茂庭)に劣らぬ柱石であった。4男の石川昭光は、名門石川氏を継承した。幼名が小次郎で、初名が親宗であり、嫡男に準じた扱いであったことから、たぶん両親が一番可愛がった息子だったと推測される。はじめ、政宗と敵対したが、のちに味方になった。5男は国分盛重で、謀反の疑いで追放された。6男は直宗と言い、若くして亡くなった。長女は御南といい、須賀川の二階堂氏の夫人になり、最後まで政宗と闘い、滅亡した。これを記録する祭りが松明あかし。次女は、叔父の実元に嫁ぎ、成実を産んだ。三女は、家臣の小梁川盛宗に嫁いだ。ちなみに、彼女が生んだ息子が、兵部によって40年前のミスが原因で失脚させられた人。4女は、はじめ芦名盛興に嫁いだが若くして病死し、婿にした盛隆(御南の息子なので、実の甥にあたる)も家臣に暗殺されたため、失意のうちに世を去った。5女は、政宗のライバル・佐竹義重に嫁ぎ、義宣、芦名義広、岩城貞隆、多賀谷宜隆を産んだ。政宗のライバルたちは実は従兄弟だったのだ。

 こうしてみると、輝宗公の兄弟姉妹は、女性の方が勇ましい性格の人が多く、男性は温厚な人が多かったことがわかる。