5.堅田から大津京(2)

 「堅田衆」といい「堅田海賊」あるいは「堅田水軍」とも呼ばれた人々の暮らしは、漁業、湖上輸送、造船などによって成りたっていた。

 漁業については、下鴨神社に毎日新鮮な魚介類を届ける御厨の供御人として、琵琶湖全体の漁業権、自由通行権を持ち、どこでも漁が出来た。このことが湖上交通、輸送に有利に働いたことは言うまでもない。 

 近年「湖族」という造語が使用されるようになり、今回もよく見かけた。海賊のイメージを払拭したい気持ちはわかるが、歴史用語ではないので、私はもちいません。


 『延喜式』主税上に全国から平安京迄の税の輸送費についての規定がある。10世紀初め頃の規定です。

 それによると、塩津から大津迄の船賃は米1石につき2升、屋賃が同1升、梶取(かじとり・船頭)6斗、水手(かこ・水夫)4斗となっている。若狭からの荷を積み出す勝野津から大津へはおよそその半額で、船賃1石につき1升、梶取4斗、水手3斗です。

 距離によって額が異なり合理的で、ある時期の実態を反映しているとおもわれる。

 屋賃とは塩津における保管料と考えられています。船積みするまで一時保管する倉庫があったのでしょう。

 それはともかく、約100年後の永承5年(1050)の運賃がわかる史料がある。奈良の元興寺領愛智庄の庄園管理人が元興寺へ提出した年貢を送った時の決算報告に運賃が記載されており、興味深い。

 年貢は米30石。船賃2艘で8斗、梶取2人で8斗、水手6人で1石8斗、苫賃1斗5升、堅田渡酒直1斗5升、借馬3疋1斗5升とある。

 勝野津からの料金に近いといえます。苫賃は米を濡らさないように苫(むしろ)で覆った代金。堅田渡酒直がほかに見えないもので注目されます。

 船乗りたちが堅田に立ち寄って酒を飲んだ代金か。公費で酒代を払うことは無いでしょう。

 では、いわゆる酒手か。時代劇で馬子や人足が客に酒手をはずんでくなせえ、とチップを要求するあれ。大井川の川人足などは、酒手をはずまないと川中に落としてしまうというから穏やかでない。

 しかし、チップを決算書に載せるかな。しかもわざわざ堅田に立ち寄って、となるとこれも怪しい。

 関銭ではないかとの説がある。しかし、延暦寺が堅田に関を置くのは、もう少し後。しかも関銭の相場は積み荷の1%程度なので1斗5升は少し高くはないか。

 私は堅田衆による「上乗」料金を考えてはと想定している。「上乗」とは水先案内のこと。

 北湖から南湖に入ると急に水深が浅くなり、航路が難しくなったと推測されるし、金目のものを狙う盗賊はいつの時代にも出没する。「上乗」はそれにたいする警護の役割も担っていました。

 堅田衆による「上乗」は任意ではなく、強制力を持つ独占権でしたから、もし上乗り料を惜しんで拒否したり、すり抜けたりすると彼らはたちまち積み荷を没収する海賊となります。古代中世の海賊とはそのようなものでむやみに襲ってくるアウトローではないのです。

 少なくともこの史料は初期の堅田衆に関する重要なものです。

 先ほど触れたが、中世延暦寺は堅田に関を設け、通行料を徴収し堂塔伽藍の建築・修理料に充てました。堅田衆がその任に当たっのは当然のことでした。

 堅田衆の構成について語り出すと長くなるので、ごく簡単に言うと、関務や宮座を握る地侍階級の居初、刀禰、小月の三氏を中心とする殿原衆と直接生産に関わる全人(まとうと)層からなり、前者は禅宗を後者は浄土真宗を信仰した。

 居初邸から浮御堂へ向かうとクリークにつきあたる。クリーク沿いに東へ行くと、CRAFT BEER醸造所の看板あり。地ビールの近江麦酒。カフェも併営とあるが、月曜日休業。残念。


 うろうろしていると、祥瑞寺の周濠に出た。臨済宗大徳寺派の寺院で室町時代の応永年間(1394〜1428)に大徳寺の華叟宗曇(かそうそうどん)によって開かれ、殿原衆に支持された。青年時代の一休宗純が華叟をしたって修行したといわれ、門前の石碑に大書されている。

 祥瑞寺に隣接して全人層の信仰を受けた浄土真宗本願寺派本福寺がある。寛正の法難で大谷本願寺を破壊された本願寺第8世蓮如を匿ったため、応仁2年(1468)延暦寺の攻撃を受けて焼き払われた。その後復興し、近江の一向一揆の中核となった。

 祥瑞寺の東南に接して伊豆神社がある。創建は寛平4年(892)というから堅田の寺社の中ではも最も古いのではないか。室町時代には堅田大宮と呼ばれ、堅田の宮座の中心だった。

 10時50分、満月寺に到着。予定より早い。人影は少なく、ゆっくり拝観できる。臨済宗大徳寺派の寺だが、湖畔に面しているので明るい。創建の由来や室戸台風で浮御堂が倒壊したのを再建したなどの話はさておき、ただただこの景色を独占できることの贅沢を味わう。

 再び静かな堅田の集落を徘徊する。波の音酒造に食指が動くが通り越す。するとすぐにまた波の音酒造。今度は蔵元直営の懐石料亭。波状攻撃だが、今日は昼食は蕎麦と決めている。またにしよう。

 天神川を渡る。堤防に沿って県道高島大津線に出る。雄琴温泉を通過。昼間みるネオンはうらぶれた感じがする。マリーナが多く、オフシーズンで引き上げられたモーターボートやヨットが出番を待っている。

 交通量が増えてきたので、山側の道を歩く。比叡山が迫ってくる。堀場製作所の横をとおる。明るい工場だ駐車場が広い。従業員の多くが自動車通勤なのだろう。

 JR比叡山坂本駅で湖西線と西大津バイパスのガードをくぐる。日吉大社への参道を進む。以前来た時はこの参道が人で溢れていたのに、静かなものだ。

 京阪石山坂本線の終点、坂本比叡山口を過ぎて穴太衆積みの石垣が始まる手前を左折すれば、すぐにお目当ての本家鶴喜そば。支店はない。

 普段は予約するか、行列覚悟の流行っている店だが、すんなりと入れた。それでも1席1組、相席はしていないので閑散としているわけではない。

 つい、鴨なんばんを注文したくなるが、じっくりメニューを眺める。熟慮するまでもなく、釜あげ蕎麦、鴨葱煮に酒は福井弥平商店萩の露「雨だれ石を穿つ」を注文。

 待つこと暫し。来ましたきました。蕎麦をつるつるとたぐり、鴨を一切れむしゃり。雨だれをグビリ。つるむしゃグビリを繰り返すこと数回。蕎麦湯がまた美味い。至福のひととき。独酌を覚えてしまった。

 後から入店してきた女性一人、ちらっとこちらのテーブルを見やって同じものを注文していた。

 店を出ると、斜め向かいに酒屋。迷わず飛び込むと目の前に雨だれがにっこり手招き。今日の土産はこれで決まり。


 坂本城跡へと歩く。あちこちにまだ麒麟が来る、明智光秀の幟が立てられたままだ。

 30分ほどで到着。坂本城址の石碑と幟が1本。ぽつり。湖岸に本丸石垣が残るだけ。

 予想はしていたが見事に何も無い。後に城址公園に光秀像が、西教寺に門が移築されていることに気がついた。

 16時過ぎに大津京駅に到着。歩行数約三万歩。