尾上の手前、湖北町今西から撮影した山本山城である。標高325m。独立した山のように見えますが、賤ヶ岳から南方に延びる尾根の南端に位置しています。

 源義光の5代あとの山本義経の本拠地です。義光は源氏中興の祖八幡太郎源義家の弟です。

 山本義経は、本名源義経。源平の争乱期に関白九条兼実の日記『玉葉』や鎌倉幕府の事績を記した『吾妻鏡』に登場する武将です。

 もちろん源頼朝の弟、源九郎義経とは別人です。同じ時期に同姓同名の源義経が二人いたので、「二人の義経」といわれ、その片方として知られています。

 むしろ、争乱の初めの頃は山本義経の方が京都や平家側には名前を知られていたと思われます。

 琵琶湖を舟で渡り、瀬田で北陸から京へ向かう米なとの年貢や物資を押さえたり、琵琶湖西岸の寺々に打ち入ったりしています。

 このため、治承4年(1180)12月平家は平知盛に数千の軍勢を率いさせて討伐させます。

 義経は近江源氏や美濃源氏を糾合し戦いましたが、瀬田・野路などで敗れ、三井寺に立てこもって、平家の本拠である六波羅を夜襲したり抵抗しますが、ついに山本山城へ逃げ帰り籠城します。

 平知盛・資盛率いる追討軍はこれを追い、山本山城は落城します。

 『吾妻鏡』はそれを12月1日とし、『玉葉』は12月16日の出来事としていますが、『玉葉』が正しいと思われます。

 『吾妻鏡』によると、敗れた山本義経は鎌倉に逃れ、頼朝に従います。『吾妻鏡』には、「弓馬の腕前は人々の認めるところ」と武勇に優れていたことを記しています。

 その後の行動は不明ですが、木曾義仲に従ったらしく、『吾妻鏡』元暦元年(1184)正月20日の記事に義仲が誅殺された時、山本義経の息子の源義広らは逃亡したとあるのを最後に歴史から姿を消す。

 源平争乱期の山城の形状はよく分かりません。現在残されている城跡は戦国時代のものでしょう。



 13時30分 高月町片山の湖岸から奥琵琶湖、塩津方面を望む。

 13時35分 片山トンネルにさしかかる。湖岸沿いに、もはや道は無い。


 トンネルを抜けて余呉川沿いに北上すると大きな看板が出ている。磯野山城趾とある。築城したのは磯野員友といわれ、永正14年(1517)磯野員詮が浅井勢と戦い、落城したと伝えられます。

 湖北にも戦国の余波が及んでいたことを示しています。

 余呉川沿いの県道44号線には桜並木となっている。満開はの季節なかはさぞかし壮観なことだろう。

 琵琶湖西縦貫道路につきあたり、伊香消防署前交差点を左折する。およそ40分で木之本駅だ。

 15時22分に木之本駅に到着した。3分前に新快速は出てしまった。次の列車まで1時間ほどあるので、ぶらぶらします。

 北国街道木之本宿として発展した街だが、木之本地蔵院浄信寺の門前町としても栄えた。

 地蔵院は眼病にご利益があるそうで、6mの地蔵菩薩像が有名。御堂下の真っ暗闇の回廊を巡る「ご戒壇巡り」は怖いから、いえいえ時間がないので割愛しました。

 最終目的である七本槍の醸造元、富田酒造に急ぎました。近くにもう一軒、山路酒造という昔ながらの桑酒を醸している造り酒屋があるのですが、ここは富田酒造さん一本に絞りました。

 外国人の先客があり、さかんにシャッターを切っていました。応対していたお姉さんが美人さんのせいかな。

 この本店でしか売っていない大吟醸搾りたて生酒。ここだけの話、限定とか生、搾りたてなんて言葉にわたしは実に弱いのです。いいお値段なので、4合瓶1本。

 バッグに余裕があるので、生酒木桶仕込みの1升瓶を詰め込んで駅へ。どちらも結構なお味でした。

 またもや昼ごはんを食べ損なった。となりにパン屋さんがあったので、サラダパンというコッペパンにたくあんを刻みこんだものを2本買った。

歩行距離21.4km