業平園のそば近くに浄土宗の歌学山正法院があり、碑文に伝承在原業平菩提寺とある。
 碑は新しい。菩提寺とあるが、業平の没した元慶4年(880)頃に先祖を祀るる寺は氏寺と呼ばれたはず。「死後の冥福」を弔う寺院という意味での菩提寺であろう。そうであるならば、その「伝承」は江戸時代以降のものと考えられる。
 実見していないが、寺の過去帳に「業平朝臣、平城天皇皇子阿保親王五男也、陽成天皇御宇元慶四年庚子正月二十八日卒ス、享保四亥年迄、八百□十年、墓有村東北山根」とあると言う。
   業平の系譜及び卒年に問題はない。享保四年迄とは、過去帳に記載されたのが享保4年(1719)ということ。丁寧に墓の場所が村の東北の山の麓とある。
 正法院の住職が書いたに違いない。となるとその住職はそれなりの知識教養の持ち主であっただろう。

 元文5年(1741)示寂した金沢妙慶寺の愍譽(みんによ)和尙は江州在原の正法院より入寺した人とある。

 妙慶寺の住職は、代々博識の僧侶がつとめたので、或いは愍譽和尚あたりが在原という地名からの連想で、業平が居住したと言い出したのではあるまいか。

 享保4年までに愍譽和尚が正法院の住職であったとして、年代的に矛盾はない。


 正法院の山門。

 マキノ駅の観光案内でいただいた循環バスの時刻表を見ると、1日3本のうち、13時21分発のバスまで1時間ある。

 小さな集落だ。急げばひとまわりできよう。



 よく見る集落の写真には、藁葺き屋根の家々が多く映っているが、見かけたのは僅か2棟。

 民家の屋根の多くは瓦葺きになっていたり、トタンがかぶせてあった。

 藁葺き屋根を期待するのは通りすがりの観光客やにわかカメラマンの我儘というもので、雪深い地元の人が暮らし安さを求めるのを、誰も止めることはできない。

 歩いていると、集落を流れる小川に竜田川の看板がある。

 いうまでもなく、『古今和歌集』所収、業平の「ちはやぶる 神世もき聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは 」にちなんで名づけられたもので、この川が歌に詠まれた「竜田川」であると勘違いしてはならない。


 更に歩くと伝説在原業平の墓への矢印を記した標にであう。


 標に従って山道に分け入ると、再び矢印。

 
 
 更に分け入ると小さな宝筐院塔が現れた。何の看板もないが、これに違いない。


 在原集落と在原業平の関係について考えてみたが、業平が晩年に住んだとか、この地で亡くなったこと、またその可能性を歴史的に証明することは出来ない。
 ただ、何の由緒もいわれも持たない山里の集落にとって、都の著名人と関係があった地であるという話しはどれほど誇らしかったことであろう。
 ふむふむ、なるほど、と相槌を打って集落をでよう。
 バス停で待っていると1台のタクシーが止まった。なんと、タクシーがバスの代行輸送をしているのだと。
 それほど利用者が少ないという事か。万一待っている客が、4人以上いたらきっと無線で応援を呼ぶのでしょう。
 白谷温泉まで5kmほど乗って300円也。タクシー代としては格安でしたが、バス停で降ろされました。
 運転手さんの話では、鹿や猪のほかときどき熊も見かけるとか。

 白谷温泉ハ王子荘で30分ほど汗を流し、リフレッシュして再出発。さっぱりしました。


 メタセコイア並木を目指してしばらく歩くと、丘の間に琵琶湖が姿を見せてくれました。

 湖畔から以外に近い。



 メタセコイア並木の終点から並木を撮る人が結構いました。

 直線距離で2kmほど続きます。


 この道をオープンカーで走ると気持ち良いに違いない。


 丁度、中間にあたる場所に駐車場やカフェなどがあり、撮影スポットにもなっていました。ここからバスでマキノ駅まで戻ると時間的に丁度よいのですが、15分ほど待たねばなりません。

 のんきに薪などを売っている人の良さそうなおじさんがいました。

 これで食べていけるのか、と聞いてみると、なかなかとの答え。

 自宅の暖炉用に山から伐り出してきたら多すぎて売っているのだと。

 やはり良い身分なのだ。琵琶湖一周の話しが弾み、ママチャリで走った話しなど伺った。

 手を振るおじさんに見送られて車中の人となった。

 歩行数約22000歩