太平洋戦争末期、
都市部への空襲が激しくなり
1944年 夏頃から
国民学校の児童を地方へ避難させる為の
集団疎開が始まりました
母も12歳の時、兄弟と共に父方の縁を頼って
福井のお寺に疎開しました
他所の学童疎開と合流しての大所帯だったそう
学童疎開の対象は小学3~6年までなので
体験者は現在89~93歳になるんですね
親元離れた子供たちは心細く
集団での規律正しい生活に緊張しつつ
粗末な食事で空腹を抱えながら
農作業などの勤労奉仕にも従事していたとのこと
母の戦争体験を短歌に詠んでみました
鶏小屋の卵盗めど嘔吐せり
母の疎開の打ち明け話
たまたま周囲に誰も居らず
弟が思わず鶏小屋の卵に手を出したのを
咎めることもなく自分も追随して
穴を開けて中身をすすったら
どろりと流れ込んだ生卵が なんとも
気味が悪く吐き戻してしまったのですって
よっぽど ひもじかったのでしょう
厳しい食料不足で
お粥も重湯のような汁に近いもの、
雑草やらイナゴも食べたそう
五十音鳥居描えがきて占へど
『負け』と出いでぬ
戦いくさの行方
母は早く戦争が終わってほしくって
こっく○さんで戦争の勝敗を占ってみると
「負ける」と出たそうです
因みに この当時は10円玉ではなく
箸を道具にしていたんですって
「こっく○さん、こっく○さん、
日本は戦争に勝ちますか?」
意地になって また占うたびに
必ず『負ける』と出るので
来る日も来る日も占っていたら
ある日のこと
((((;゚Д゚))))ブルブル
く
ど
い
『くどい』と箸が差し示したのです
『くどい』とは しつこくて
うるさいということ
さすがに怖くなった母は
占うのを止めたとのこと
「また あした」
分かれし友の行く手には
火の雨またの明日あす失せにけり
学校帰り、友達と別れた後
近道して田んぼを通り抜けした母が
家に入ったのと ほぼ同時に
バラバラと焼夷弾が降って来たのでした
母は すんでのところで命拾いしたけれど
友達の多くは敵機からの銃撃を受けて
畦道のあちこちで息絶えていたと後に聞き
戦争の恐ろしさに身震いしたそうです
母のように直接、壮絶な被災体験をしていなくとも
戦争が子ども達に与える心の傷は大きいものでした
【大阪大空襲】
1945年3月13~14日、B29、 274機が飛来し
大阪市内の広範囲が焼け野原になりました
被災家屋13万6千戸以上、死者4,000人
焼夷弾1,733トン
その後も終戦までに
大小合わせて50回を超える空襲があり
B29が100機以上飛来した空襲は
8回あったとのこと
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今年は如何に戦争を無くし平和を維持していくかに
焦点を当てた報道が多く感じられました
枯渇する石油による資源の奪い合い、
気候変動による食糧危機、
戦争における特権階級の利益など
戦争への不安要素が山積してます
個人レベルで できることは小さくとも
身近なところから
他者を思いやり譲り合い分かち合い、
物事を暴力ではなく話し合いで解決する
それが集まって大きなうねりとなり広がって
あたりまえの世の中の風潮に変えていくことが
戦争の無い平和な世界に繋がってゆくとのだと
改めて思いました
オマケ 若き日の父と母
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