「山深く さこそ心の かよふとも すまで哀れは しらんものかは」 西行
山深く分け入ったつもりで、どんなに想像をたくましくしても、実際に住んでみなくては、その哀れ(しみじみとした情趣、味わい )を知ることはできない。
この歌は西行の歌作りに対する姿勢をよく表現しています。西行は歌人である前に仏教の僧侶でした。仏教の究極の教えは「汝、妄想を去り、現実を生きよ」ということに尽きますが、ここで言っている「現実」とは、意識作用と意識対象とが「作用即対象・対象即作用」「色即空・空即色」として表裏一体となった「動的具体的全体」であり、「体験の世界」「実践の世界」「行為の世界」であり、「三昧」「直接体験」「純粋経験」を意味しています。これに対し、私たちが錯覚している現実は、現実を意識作用によって対象化した「意識対象の世界」であり、「意識作用と意識対象が分離」した「静的抽象的部分の世界」です。
西行は、体験という現実の世界に居て、リアル(現実的)な歌を作っていますが、その他の多くの歌人は想像の世界に居て、バーチャルな歌を作っています。リアルであるということは感情の真実性・審美性・新規性・具体性・全体性等があり、共感を誘ったり、感銘を与えたりすることができます。因みに、恋に恋する青年の恋と大人の恋とは大いに相違しているものです。「事実(現実のものごと)は小説より奇なり」とは詩人であるバイロンの至言です。(つづく)
仏教・禅は「言葉」「言語」「概念」「論理的思惟」「分別」、要するに「二次的意識」を一旦否定します。なぜ、一旦、否定なのかといえば、これらにとどまる限り、決して悟ることができないからです。論理的思惟を尽くすことは必須ですが、論理的思惟を尽くしたとしても「百尺竿頭」にとどまる限り悟りを得ることはできません、「百尺竿頭須レ進レ歩」すなわち竿頭から更に一歩踏み出すことが必要です。その更なる一歩とは、テオリア(理性・論理的思惟)からプラクシス(実践)へ、「三昧」という「純粋体験」への一歩なのです。私たちは「体験」を概念的に規定し「論理的に思惟」します。禅宗で「何」とはこの「純粋体験」「体験そのもの」のことであり、「動的具体的全体」である「現実そのもの」「事実(現実の或る出来事)そのもの」であり、概念規定や論理的思惟以前の出来事なのです。私たちが「世界」と言っているものは「思惟された世界」「思惟の対象界」であり「静的抽象的部分の世界」であり、「バーチャルな世界」であり、所謂「浮き世」なのです。私たちは、生まれてこの方、概念を駆使した論理的思惟という筆で、「浮き世というキャンバス」に絵を描き、いつしかその絵の中に自分を描き入れるという倒錯に陥っているのです。私たちの真の居場所はキャンバスの外にあり、「絶対無」であり「空」なる場所です。
「不生禅」で知られる盤珪は、「一切は不生で整う」と言い、「不生なれば滅することもなきが故に不滅とも言わない」と言って、生まれることも死ぬことも、その間の人生も全否定しました。つまり盤珪は、私たちの思惟の対象界であるキャバス自体を否定したのです。
「絶対無」(相対的な有無の無ではない)が私たちの居場所です。場所といっても空間的な場所ではありません。統一あるハタラキ・動き・エネルギー・流動といった宇宙の原理(ブラフマン)がアートマンとなって私たち人間に降臨し、意識のハタラキすなわち「意識作用」となります。これが所謂「仏性」です。「見性(悟り)」とはこの仏性を見ること(知るのではない)であり、仏性を経験することです。「意識作用」は決して「対象化」することができません。従って「意識作用」は「絶対無」であり、「絶対有」でもあります。これを禅では「有仏性・無仏性」と言います。意識作用はキャンバスに絵を描くハタラキであり、描かれるものではありません。ハタラキは知ることができませんが体験することはできます、ハタラキを体験として会得することが悟りです。
「身につもる 言葉の罪も 洗はれて 心澄みぬる 三重の滝」 西行
眼前に三重の滝を体験すると、そこにはただ色即空としての滝があるだけで、言葉によって描いてきた罪深い一切のものごと、すなわち浮世は消え失せて心が澄んでくる。
(つづく)







