悟りの証明 -3ページ目

山本尚氏は『日本人は論理的でなくていい』において、次のようなオイゲン・ヘルゲルの著書『弓と禅』の一文を引いています、

 

「いったい弓を引くのは私でしょうか、それとも私を一杯に引き絞るのが弓でしょうか。的の当てるのは私でしょうか、それとも的が私に当たるのでしょうか。あの“それ”は肉眼には精神的であり、心眼には肉体的なのでしょうかーーその両者でしょうか、それともどちらでもないのでしょうか。これらのすべて、すなわち弓と矢と的と私とが互いに内面的に絡み合っているので、もはや私はこれを分離することができません。のみならずこれを分離しようとする要求すら消え去ってしまいました。」

 

これはまさに「論理的でない」一文で、何を言っているのかわかりません。やはり、論理を尽くして論理を超えて非論理になることと、単なる非論理とは根本的に違います。

 

ここでは、弓に限らす日本の武道や芸能を「論理的に」深く考えることで、「論理的でなくていい」という意義を解明したいと思います。日本の武道や芸能には必ず「型」というものがあります。「型」とは「規範となる動作」「手本となる動作」ということですが、何故規範となるのかといえば、「型」は「合理的」な「理にかなった動作」であり、「動作の法則」だからです。私たちの動作は目的達成のための手段と考えられますが、目的を確実に達成するための「型」という「自然必然の法則」に則った動作を修得するのです。型の修得は「論理的なものではなく」、師匠が動作で示した型という規範的動作をひたすら真似をするのです。論理的に学ぶのではなく、動作でおぼえるのです、規範的動作を動作で覚えるのです。作用を作用で覚えるのです、つまりそこには作用が作用自身を知るという作用の「自覚」「般若」「事行」が働いていることになります。ちなみに西田幾多郎は、この作用が作用自身を知る作用を「作用の作用」といい、「自覚」と言っています。

 

「型」は「無作の作」、すなわち「無作」でもなく「作」でもない「無作の作」、つまり無意識的な動作でありながら意識的な動作、私ではない動作でありながら私の動作、「絶対矛盾的自己同一」の動作ということになります。

 

例えば、茶道においては、茶室に入ってから茶室を退出するまで、その間の動作はすべて「作法」に則って行われます。「作法」という言葉も「作の法」「動作の法」ということで「型」と同じ意味です。「型」に従って、一つ一つの動作を繰り返し繰り返し行うことで、いわゆる「骨」というものが身についてきます。私たちが「骨」を得た時には、動作を完璧に、無意識に、「自然に」やったという「自覚」が生まれ、時には「美感」が伴います。人によっては鳥肌が立つこともあります。作法に則るとは自然必然の法則に従うということであり、仏教ではこの自然必然のハタラキ(法則)を「仏性」といい、仏性を擬人化したものを「仏」と言っています。茶道とは茶室という仏の空間で私たちが一時の仏になるということを意味しています。

 

「型」には、仏教の根本思想が反映されています。自然の自然必然の働きを利用しようとする「使然」の思想があります。私たちは人間である前に動物ですが、動物である以上、自然必然の下で生きていて、「自由」はありません。しかし、私たちは「使然の立場」に立つことによって自然から自由になることが出来ます。仏教の自由とは、「必然的自由」ということで、必然と自由は矛盾しますが、この矛盾のところに自由があるというのが仏教の思想です。自然に従うところには自由はなく、自然を使う(活用する)ところに自由があると考えるのです。この考え方は、実は、科学(自然科学)の考え方そのものです。科学は自然に潜む法則を発見し、それを活用して、私たちの生活に資するということを目的にしています。仏教と科学の違いは、仏教は主観・作用・精神を対象としますが、科学は客観・対象・物質を対象にしています。

 

「型」はただ実利的な目的必達の側面があるだけではなく、芸術と深い関係を持っています。武道でも芸能でも、名人と言われる人の所作は自然必然の法則に従っていて自然であり、私(我)が完全に抜け落ちて、わざとらしさがなく、側から見ていると美を感じます。型の動作は術となって芸術になり美を発するのです、要するに「アート」なのです。

 

「型」はまさに仏教の核心である「仏性」を具現したものなのです。仏教(禅)はこの「仏性」を「言葉ではない」「論理的でない」方法で、次のように伝えています(悟りの証明37参照)。

 

宝徹禅師が暑気払いに扇を使っていると、ある僧がやって来て、

一僧「仏教では『風性常住無處不周』といっていますが、和尚は何故ことさ

   らに扇を使うのですか」

宝徹「お前は『風性常住』ということは知っているようだが、『無処不周』という

   道理が解っていない」

一僧「それでは『無処不周』とはどういう意味ですか」

宝徹は何も言わずに、ただ扇を使っているだけだった。

 

この一僧はなかなかの痴れ者で、この問の本意は「風性」に引っかけて、実は、「仏性」について次のように仏教を批判をしているのです。

 

「仏教では、人間は生まれながらに誰でも仏性を有しているから、その身そのままで仏なのだと説いていますが、それならばなぜ、「悟りだ、悟りだ」といって、悟りを求めて厳しい修行をしているのですか。」

 

この問に対し宝徹は、論理的にではなく、「扇を使うという動作」によって仏性は「存在(在るもの)」ではなく、「当為(在らしめるべきもの)」であるということを「直指(直接指し示す)」しているのです。

 

『不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏』

 

「文字によってではなく、論理的教えによってでもなく、仏性を直接(動作によって)指し示すことによって成仏に導く」というのが禅・仏教なのです。

 

私たち日本人は以上を理解した上で、「論理的でなくていい」のであり、「論理的でない方がいい」のです。神道もまた「言挙げせぬ」と言っています。

 

 

 

 

 

 

 

悟りの証明(108)において、「仏教・禅は「言葉」「言語」「概念」「論理的思惟」「分別」、要するに「二次的意識」を一旦否定します。」と書きましが、同じように、論理的思考を否定する著書『日本人は論理的でなくていい』が出版されていることを知り、早速購入して読んでみました。著者である山本尚氏は禅に関心がおありのようで、内容は概ね納得いくものですが、残念ながら、主張の根拠が十分には明らかにされておらず「フィーリング的主張」に終わっているのが残念です。

 

普通、私たちが世界と思っているものは「現実」「一次的意識」「動的具体的全体」「純粋体験」を対象として反省によって得られた「静的抽象的部分」の記憶の集積であり、「過去の記憶の世界」なのです。私たちの倒錯は、この過去の記憶の世界から「現在」「現実」「一次的意識」を規定しようとするのです。つまり、現実を「言葉」「言語」「概念」「論理的思惟」「分別」によって規定しようとするのです。「一次的意識」に由来する「二次的意識」が逆に「一次的意識」規定しようとするのです。従って、「言葉」「言語」「概念」「論理的思惟」「分別」を否定しない限り「現実」に直に接することができないのです。

 

親鸞の悪人正機説「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」の真意は、仏教に入るためには、全くの無分別、非論理を受け入れて、「信」から入りなさいと説いているのです。自力の仏教の仏道は教(仏典や師から学ぶ)と行(いわゆる修行)ですが、親鸞の浄土真宗は「他力」の仏教で、「教・行・信」を信奉します。「信」は理屈無用であり「論理無用」であり、論理無用であることを受け入れることが「信」なのです。禅は自力の仏教ですが、公案に「橋は流れて水は流れず」というのがあります。これは「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」と全く同じで、ガツンと一発、非論理(無分別)を突きつけているのです。

 

科学的発明発見は「仮説」から始まる場合と実験による偶然や日常的偶然よる場合等がありますが、「仮説」はどこから来るかといえば、論理的思惟からではなく、自覚(=事行≠直覚・直観)(悟りの証明74参照)から来るものです。自覚によって物事の「動的具体的全体」を把握し、その「動的具体的全体」を分析することが論理的思惟ということになります。科学的推論はその前提として「自覚」による確信がなければなりません。いずれにしても論理的思惟は二次的なものなので、『日本人は論理的でなくていい』のです。

 

芸術(短歌)も科学も、過去の記憶の世界からは何も新しいものは生まれません。現実に直接接し、現実を直接知る・体験する・自覚することによってのみ新しい世界に入り、発明発見が可能になります。  #日本人は論理的でなくていい