かつて世話をした韓国人留学生に、敗戦時日本に200万いた朝鮮人が数年後60万人になった。その差140万人はどうなったと思うかと聞いたことがあった。特に意図はなく、単に帰国という答えを期待してのものだったが、彼の答えは実に意外だった。「皆 殺したのでは?」。目の前が真っ暗になった。

彼は韓国の一流大学を出て、日本に留学し直した優秀な学生である。小学低学年以下の答えが出たことがどうしても納得できず、その理由をその時から考え始めた。
                           

                                   筑豊のボタ山
ほんの30~40年前、九州の史跡には「朝鮮征伐」「三韓征伐」の文字が溢れていた。日本人は植民地朝鮮を忘れようとし、差別的偏見は温存しつつも朝鮮について考えることを放棄してきたのである。彼の発言はかつて日本人が朝鮮に対して抱いていたイメージの裏返しではないか。現代韓国人もひょっとして日本について判断停止しているのではないかとの疑問が湧いてきた。

これだけ交流が活発になり、互いに多くの知識を共有しているはずなのに何故ブラックボックスが存在するのか?
もっとも顕著な例が「挺対協」である。彼らの挺身隊20万人という言説が慰安婦問題を支配し続けた。20万人もいたのに現存者はわずか、この矛盾をどう説明するかという時、先の学生の答えが浮かび上がる。多くは日本軍によって殺されたに違いないと、、、。

 

                                                              

                                                              正義記憶連帯の下に 挺対協のプレート

少なくとも慰安婦問題を日本と本気で交渉し、解決を目指そうとするなら、「挺対協」ではいけなかった。挺身隊と慰安婦は本来成り立ちが違うものであるから、。最近「正議連」と名称変更したようであるが、「挺対協」はまだ存在し、政府の援助を受けているという。


                              
とすれば彼らの目的が慰安婦問題の解決と癒しにあるのではなく、国家間の政治問題化し、日本を屈服させることにあるのではないかとの疑いも生じる。日本に留学した韓国人、日本語、日本文学を専攻した韓国人の延べ人数は一定の人口比率に達するはずである。なのになぜ日本を知る彼らは日韓関係危機の今、沈黙を守っているのか。日本にいる間本当の日本を学べなかったのではないか?

この様な思いから関わる留学生になるべく多くを語り、多くの事実に触れさせようと思うてきた私は、毎年9月17日に行われる真岡(しんおか)炭鉱の事故犠牲者慰霊祭に学生を誘うたわけである。
                                      

  真岡炭鉱慰霊碑に献花する留学生

筑豊の炭鉱地帯までは結構遠い。香春町の林立するセメント工場の横を通り過ぎる時は、黒ダイヤ石炭と並んで、白ダイヤと呼ばれる石灰岩も筑豊の主要産業の一つであったことを話した。山が上の方から階段状に削り取られて行く景色は殺伐として壮観だった。

案内してくださるP先生と合流した後、先ずはフィールドワークに出発。法光寺に着いた。ご住職にあいさつして「寂光」と書かれた慰霊碑を訪れ、P先生の説明を聞く。身寄り、引き取り手のない遺骨は寺に持ち込まれることが多かった。筑豊の一つ一つの寺には朝鮮人の遺骨が安置されている可能性がある。
                               

                                    P先生の説明を聞く
火葬、埋葬許可証や寺の過去帳を手掛かりに筑豊の寺々を訪ね、一つ一つの遺骨と向き合い、可能な限りどこの誰であったか名前を明らかにする作業を続けてきた人がいた。在日の歴史家、金光烈(キ・グァンヨ)先生である。金先生のお蔭で、私たちは今日十分ではないにしても確実な朝鮮人の遺骨に接することが出来るのである。遺族にたどり着くことが出来た遺骨は返還された。P先生はその後を受け継ぎ、筑豊の歴史に迫っている人である。

 

日本にも韓国の挺対協と同じく、事実を事実ではなく気分で語る人がいる。極端な言い方をすれば、筑豊には数万の朝鮮人の遺骨が至る所に埋められているという言説。日本人としての贖罪意識も手伝うてのことだろうが、朝鮮人炭鉱労働者の死者の数はある程度明らかになっている。おそらく数千を超えることはないと見られる。

               

                                     茂った枝は木槿

次に訪れたのは田川市石炭・歴史博物館の構内にある「韓国人徴用犠牲者慰霊碑」である。巨大煙突や炭車、巻き上げ機などを遠望した後、慰霊碑の階段を昇った。ここに安置された遺骨はすでに韓国へ返され、今は石碑のみ立っている。学生たちが漢文調の難しい碑文を読もうと苦闘していた^^。
                             
次に豊州炭坑坑口を訪れた。閑静な住宅地の民家の庭先に, 忽然と開いた坑口。坑夫を暴力で支配する筑豊でも有名な圧制ヤマとして知られた所。斜めの劣悪な作業環境での特別訓練坑が置かれたことでも知られる。逃亡、反抗などの朝鮮人がここに入れられ、死ぬ目に遭わされたと言う。坑口がそのまま保存された貴重な場所である。
                                        


時間の関係で現地踏査を切り上げ、元隣保館長のHさんの待つ真岡炭鉱跡に向かうた。現代韓国の若者に隣保館や被差別部落を理解させるのはかなり骨の折れることであるが、一通りは事前に説明して臨んだ。朝鮮でも「白丁(ペチョン)」と呼ばれる賤民階級が存在した。1920年代には衡平社(ヒョンピョンサ)という運動団体を作り、水平社と連携して差別撤廃運動を推し進めた。水平社と同じく日帝の弾圧で組織は瓦解させられていく。

                           

                            真岡炭鉱第三坑 殉職者慰霊碑
歪んだ受験教育を押し付けられている韓国の若者。全教組が本当に民主教育の団体ならば、ヤンバンになる為の受験教育から是正すべきであるし、身分差別についても教えるべきであるが、私はいまだかつて身分差別の問題に関して基礎知識を持つ留学生に出会うたことがない。学校では慰安婦については教えても身分差別については過去のこととして教えんらしい。日本を悪者にすればすべての韓国人が堂々としていられるが、民族内の矛盾、差別は直視したくない、忘れたい現実なのであろうか。

毎年3・1文化祭に参加する時、解放センターの前を通るので必ず部落解放運動について触れるが、今年は中止になったこともあって、訪問の前に話すことになった。部落問題をいつまでも引きずり、解決できんでおる日本に対して、解決済みのこととして誰も意に留めぬ韓国。互いの問題点を認識、理解し合うことで、ひょっとしたら部落問題解決のヒントを得られるかも知れない。