特定の固定的な価値観に引き回される韓国の世相が見えてきた。日本大使館横の少女像も見に行ったが、横断幕に「対馬も我が土地」と大書してあった。なんで対馬を、しかも歴史的事実に反することをスローガンにするのか。慰安婦問題の解決と何の関係があるのか。

 

慰安婦を少女像のイメージで代表させること、それを世界中に設置することには違和感を覚える。確かに少女を慰安婦にしたことも厳然たる事実であるからそれを記憶するためにも少女像はあった方がいい。ただ過猶不及(과유불급)ということである。

                          
少女像は朝鮮女性の純潔貞節を日本が汚したとの連想を招く。確かにその通りなのだが、某T教会が純潔にこだわることと軌を一にする。朝鮮社会が純潔、貞節を厳しく求めたのはヤンバン婦女に対してであって、父系血統を維持するための、ただ産むためだけの性の管理が目的であった。


情緒的扇動を方法論とする運動は怪しい。韓国人が日本、日本人に対して持つ情緒的感情、それはナショナリズムと結びつく。ナショナリズムの出どころは民族主義であろう。韓国は北朝鮮との分断国家である。分断を克服して統一を模索するには民族主義が必要である。その気持ちは痛いほど分かる。

 

しかしこの民族主義、ナショナリズムは猛毒である。適量を処方に従って服用すれば薬効があるが、統制が極めて難しい。すぐに中毒し誰にも止められなくなって、ついには国をも滅ぼす。これこそ日本が歩んだ道である。民族主義、ナショナリズムはならず者の最後の隠れ家であることを肝に銘ずる必要がある。

 

                         

                アンソン(安城)の癒しの家。相場より高く買い、疑惑が発覚するや3分の1で売り払った。

私は韓国人と真の友人になりたいと思っている。しかしナショナリズム、民族主義にとらわれた友人の姿は見るに忍びない。日本に生まれ、この地に生を受け継ぐものとしてこれだけは譲れない一線というものがあるのである。

 

支援活動は誰もが経験するように、報われることの少ないものである。ほとんどの人が自腹、手弁当で動いている。もちろん制度的な保障は求めるが、自分自身金を貰おうとは思わない。尹美香(ユン・ミヒャン)氏も初めはそうだったと思う。彼女の純粋な初心を信じる。そうでなければ生涯をそれに捧げることはできないから。

 

           挺対協の創始者 尹貞玉(ユン・ジョンオ)手前

 

儒教に由来する華夷秩序によって常に日本を見下そうとする情緒が韓国人にはある。元慰安婦のお婆さんの癒しよりも日本と対決し、日本を屈服させることがいつの間にか正義連(挺対協)の目的になってしまった。これは李容洙(イ・ヨンス)ハモニの指摘するように、痛みを別の痛みで埋め合わせることである。
 

李容洙さんはまた「性奴隷」の言葉に苦痛を感じたという。本人が嫌がるのに、国際社会での通りがいいという理由で「性奴隷」を組織の名称として用い続けるのは、被害者中心主義からはかけ離れた政治利用主義ではないか。

 

                 

                  元慰安婦を刻んだ石碑。挺対協に異を唱える被害者の名前が除かれた

常軌を逸した進学熱からも分かるように、韓国の民主主義は上昇志向のヤンバン民主主義である。儒教の本質は身分差別の正当化、合理化であるから、自身の差別性については多くが無自覚である。政治党派化し、特権を手に入れれば自然とヤンバン化していく。曺國氏も尹美香氏も娘に対して取った態度は同じである。すなわちなりふり構わず、不正もものともせず、ヤンバン支配者に育てること。

 

正義は人の数だけある。立場が異なれば、それぞれに正義が存在するのである。最近の韓国は正義の文字に溢れている。これらは美しい言葉で自己弁護に明け暮れた老論などの党派の名分論を思わせる。自党派だけが正義であると。未熟な青少年ではあるまいし、正義を振りかざして恥かしくないのか。

                        

                 職員たちによって内部告発が行われたナヌの家

尹美香、正義連、ナヌの家に関する情報が錯綜する中で、朴裕河(パ・ユハ)氏のコメントが心をとらえた。大義を見直す時が来たという趣旨の発言である。ここでの大義は日本との対決であろう。彼女は儒教の束縛から離れ、自由に物を考えることのできる数少ない韓国人の一人である。

                 

                           朴裕河(パ・ユハ)氏の講演(福岡)

 

この問題の原因をつくった日本の側こそ一日も早く安倍イズムを清算し、被害者の心に届く謝罪の仕方を考えるべきである。元慰安婦たちに残された時間はほとんどない。