憧れつつも流される。 | 救魂録

救魂録

カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。

【光あるうちに光の中を歩め】
ロシアの文豪トルストイ(1828-1910)の小冊。


15年前に読んで言ってることがわからなかったものですが、今はすんなり入ってきます。
トルストイ自身は、原始キリスト教に傾倒し、国家と癒着した正教会を非難、破門までされております。
先ほど、エピクテトスをご紹介いたしましたが、時代は全く同じキリスト生誕から百年のローマ治世。

まだ、カトリックと正教会とプロテスタントも無教会も分かれておらず、ローマの国教にもならず、皇帝との権力争いもなく、
キリスト教がまだ、素朴な原始共産主義の村を作って、所有はなく、身分の差もなく、物も心も分かち合い、
死さえ恐れず、迫害するローマ兵まで愛し抜いていた頃のお話。

そこにいるだけで、幸せいっぱいで、自然に人に優しくなれ、
「生まれてきてよかった。」と感じられる。

つまり「福音家族」です。

トルストイによって描き出される生き生きとしたその描写を読むたびに、実に清らかで喜びに溢れる気持ちになってきます。

シンプルで、愛し合い助け合う美しい生活。

「ああ、そういう生き方をしてみたい」と思わされます。

が、問題は、
そうした生き方に憧れ、正しいと思いつつも、
「いやいや、それはちょっと待て」
というブレーキが一生のうちに何度もかかり、
少年も、青年も、中年も、老人も、
「もいちょっと人生経験つんでから」といっているうちに結局それに踏み出せない。

欲望と成功の追求に耽るローマ人ユリウスと、キリスト教徒になったその友人パンフィリウスという対照的な人物の織りなす物語。

この構造は、二千年前のローマでも、五百年前の日本でも百年前のロシアでもまた現代でも同じでしょう。

とりわけ、アメリカはまさに現代のローマ帝国のように思われます。

ユリウスという金持ちゆえに甘やかされた人間が、酒、ギャンブル、ゲームに溺れて、金を使い果たして、家族まで憎み始める様子の見覚えのあること。
ほぼ現代でも同じような奴がいます。

ユリウスの「ためを思って」忠告する医師は、ほぼ代表的なキリスト教に対する批判や、矛盾点を語ります。

例えば
•無理矢理誘われて殺されたりしないか。
•禁欲主義であり、自然が授けた欲望を否定している
•私有を認めないのは欺瞞
•神々を認めない無神論者
•人類の叡智や科学、神々の力よりも、磔にされた男を盲信している(カルトではないか)
•軍隊がなければ平穏に生活できないのに、保護を利用しながらそれを認めない。
•綺麗事、理想論

ちなみに、私見ですが、ローマの哲学には不完成ながらもキリスト教と相通じるところがあると思うのですが、
キリスト教の迫害に際しては、相対立し合っていた哲学と多神教は一致して手を結び協力しました。

ローマのピラトとユダヤ王ヘロデがイエスの死刑に際して手を結んだごときことが、繰り返されます。

右からは「国体を損なう」
左からは「支配の道具」
とどちらからも叩かれる。
無論どちらも誤解です。

ヨハネ•パウロ二世も、左翼からも撃たれ、保守からも刺されました。

一方、ローマの現状は
•世界史上最高の法律が整備されているにも関わらず人間の堕落は激しい。
•神々なんて人間の作ったフィクションだと賢い人は気がついているが、権力に逆らうのは損なので秩序に従っているだけ。
•浮気をいくらしても満たされない。
•「もっともっと」快楽が欲しくなり底無しになり破滅。
•結局誰も自分を愛していないし、自分は誰も愛していない。
•親を殺すか、自殺した方がまし。
•結婚は全て闘争と暴行
•欲望が価値あるものとして祭り上げられている
•叡智が肉欲のために利用される
•苦役で奴隷を苦しめる、同胞を殺す、女は快楽の対象でしかない
•科学は殺戮の方法だけに向けられる
•他人の労力で金を増やす方法を考える
•見るに耐えないエログロな絵が家に飾られている

この描写など、現代社会に瀰漫せる快楽主義、無気力、ニヒリズム、そのものではないでしょうか。

パンフィリウスは、
それらの誤解を丁寧に解いてゆき、自分が今いかに愛に満ち足りて幸福であるかを証します。

彼は、招き、いつでも受け入れる準備がありますが、決して強制はしません。

ユリウスの心は青年から老年に至るまでは愛によって生きる世界と、欲望の虚しい世界、二つの世界の狭間で揺れ動き、結局愛を選ぶことはしません。

ですが、晩年になって、全てを振り切って、やっと村に行き生活を始めます。
しかし、そこに残っていたのは、何も仕事のできない自分、みのならない中身でしかありませんでした。

「ああ、もっと早く行っていれば!」
と落胆し後悔するのですが、
最も大切なことは、
「人と比べて大きな仕事をしても、神からみればさほど違いはなく、
見られるのは、まっ直ぐか、ねじ曲がっているか。
神に仕える労働者でなく、神の家に住む子どもであることの方が大切。」
ということで、
「死ぬのも忘れる」ほど、ユリウスは幸せな晩年を送りました。

この話は、
「後悔するくらいだったらもっと早く生き方を変えなさい」
「いつかいつか、は永遠に来ない。今決断しなさい。」
と呼びかけもですが、
「いきなり人が変わることを期待しないで、何十年でもじっくり待つ。いつでも受け入れる準備をしておく。」
ということの忍耐の大切さもあるのではないかと思います。


私自身、十五年前にこれを読んでも全然わからなかったのが、
後で心に響きます。

一方、伝える側も、直ぐに人を変えようとするのではなく、種まきだけは誠実にやり続けること。引き留めないけれど、証し続ける。
来ては離れてを繰り返す人が多数の中でも、ふとしたことが、暗闇の中にいる人の光になるのだから。