このことは、日本のキリスト教の歴史において、
またしいては人類全体の経綸において、
「薩長同盟」以上の大きな転換点をもたらしたと確信いたします。
ヘルンフートやテゼ共同体に次ぐ、エキュメニズム、超宗派のリバイバルの発展とも言えましょう。
ひょんなことから、
「カリスマ」と呼ばれるH神父と、無教会派「M」のI先生が、三時間以上にわたり対話をすることが実現いたしました。
互いに互いの霊性の素晴らしいところを称え合い、学び、高め合い、
互いの課題を明確にした上で、共に照らしあいながら協働して、救いのために働き祈ること。
なんと美しいことでしょうか。
どちらからも白い目で見られることを恐れていた私ですが、
その心配は全て無用で、一つの大きなうねりが巻き起こっておることを感じます。
これまで、Mの中で、H神父のことを話すと、怪訝な顔どころかサタン扱いされることもありました。
いわゆる「教会」では、少子高齢化が進み、信仰も形式化し、
確実な救いを宣言できない状態でした。
そこに普遍主義と絶対的な救いを宣言する司祭が現れ、若者を引きつけて、
新しい時代をつくっている。
一方、七十年前、閉鎖的な教会の在り方への反発から、
聖霊の愛を旗印に、無教会のT師が原始福音運動を起こしました。
おそらく預言者の一人で、比類なき霊の群れであったと確信しています。
ところが、T師の仕事、半世紀が経ち、群れも一つの固定化した閉鎖的な血縁集団にならざるを得ない。
そして、無教会は、自らの比類なき霊性の高さから半ば「アンチ教会」となる、
もしくは、組織の維持、次世代につなぐことばかりに汲々となり、
「人類全体の救いの経綸」まで意識が向いていないのではないか。
カトリック教会は、60年代以前は「教会以外に救いなし」と言うほど、
閉鎖的な在り方でありましたが、
第二バチカン公会議以降、百八十度ともいえる開かれた転換を果たし、
諸宗教との対話やエキュメニズムを推進してきました。
そして、困ったことに互いにその存在を知らない、
もしくはごくごく一方的なバイアスによって一面性だけを批判しているという状況で、
「対話」というものがほぼ皆無に等しいわけです。
共に、本物の優れた霊性を持ち、
また、未来に対するのりこえねばならぬ課題を抱えている。
今、本物同士が出会い、共に未来を創る祈りがなされたことは大きな希望です。
私は、特定の組織だけ閉じこもることなく、
普遍的な在り方を求め、対話を推進する立場にあります。
このことがきっかけで、日本の福音宣教は大きく花開き、
一つの社会、教育改革を実現することにも繋がりました。