怒涛の3日間が終わり、心地よい疲労感とともに家路についています。


今日はもっぱら教育コンテンツの講演を選んで参加しました。教科書のデジタル化という話もありました。私はこの流れはもう止まらないと思っています。学生時代に教科書を印刷する会社でアルバイトをしていましたが、紙の束の重さたるや半端なものではありません。深夜帯の仕事なので割りが良かったですし、若さで体力が有り余っていたのでやれてしまったのですが、今の自分がやるとしたら絶対無理だとわかっています。印刷したら今度はロジスティックの話になります。物流拠点でのバイトもしていましたのでそこで働く人たちやドライバーの方々の仕事の大変さも理解できます。教科書のデジタル化によって上で述べたような苦役に近い労働をしている人たちは失業してしまうかも知れませんが、そもそも仕事というのはそういうもので、歴史を顧みても様々な仕事が現れては消えるということが繰り返されて来たのです。


つまり紙という資源の節約になり、ロジスティックの疲弊ぶりが指摘されていますが、その問題も解決することができるというメリットの方が大きいのです。当然コストも削減されますので、それをより本質的な教育や研究といったことに振り向ければ良いと思います。


デジタル化されたものは突き詰めれば0と1の膨大な数列としてコンピュータで処理されるだけのことですから、デジタル教科書は、動画であれ音声であれ、デジタル化されたリソースをどんどん取り込めます。これを使わない法はありません。タブレットやPCの扱いに関しては、先生方よりも児童・生徒の方がずっと順応性が高いことも今更言うようなことではないでしょう。手放しでタブレット等を児童・生徒に使わせることに対する抵抗も考えられますが、私たちだって分厚い国語の教科書のページの隅に絵を描いてペラペラめくるとアニメーションになるのを楽しんだら、著者近影に落書きをして遊んだものです。とのように禁圧しても児童・生徒は勝手に色々なことを試みます。そういった遊びの部分はある程度残しつつ、セキュリティー面でのリスク発生やイジメなどに利用される危険性に対するガイドライン(こえてはいけない一線)だけは堅持するという姿勢で良いのではないかと思います。


裏事情を知る人間としましては、教科書などのコンテンツのデジタル化や今世間がざわついている生成AIが誕生することは30年以上前から予測していました。ゲームチェンジャーの出現やCovid-19のパンデミックという歴史に残るであろう突発事態でその実現が早まっただけなのです。


このような潮流により教育は根本的な変容をとげなければならなくなるでしょう。しかし私は信じています。the schoolは無くなるかも知れませんがschoolがなくなることは絶対にありません。要はそのような時代に突入して教師となる人に求められる資質は何なのかを真剣に考えることです。今までのように知識の勾配を前提とした一方的な教え込みという仕事は確実になくなると思いますが。長くなりましたし降りる駅が近付いてきましたので、今日はここまでといたしましょうか。