閉館間近の池袋のサンシャインプラネタリウムに足を運んだ。

一昨年も東京のプラネタリウムのもう一つの雄だった五島プラネタリウムが閉館したばかり。

もうすぐ閉館するというのに館内は意外にすいていて、
往年の混雑振りを知っている一人としては寂しい限りだった。

天文を趣味にもって30年。


この間、ハレー彗星は百武彗星、ヘール・ボップ彗星、しし座流星群が見られ、
日本の巨大望遠鏡「すばる」の建造といった話題が目白押しだった。

しかし、なぜか、日本の天文人口は減る一方だった。

山に星の観察に行っても10代、20代はあまり見かけない。
私以上の中高年のオヤジばかりで、

「若い人たちはどこに行ってしまったんですかね?」

があいさつ代わりになっている。


その理由は、

①夜空が明るくなって星が見えなくなった
②天体写真偏重で初心者に敷居が高くなった
③理科教育で地学が軽視されている、

などが挙げられてきたが決め手に欠けていた。

なにも衰退しているのは天文に限らないからだ。
たとえば、読書人口の減少である。

その一方でテレビゲームは隆盛を極めている。

違いは何か。

両者を分かつものは、想像力が必要かどうかではないだろうか。

読書は、文字を追うことで頭の中に生き生きとした物語が紡がれていく。
想像力がなしえることだ。

同じように天文を楽しむのにも、並外れた想像力を必要とする。
興味もない者にとって、ただ漆黒の闇に浮かぶ光のシミにすぎないものに、
天文マニアは時空を超えたロマンを感じる。

想像力の力を借り、何万光年かなたの宇宙や太古の宇宙の始まりに思いをはせる。

一方、テレビゲームはどうだろう。

用意された「バーチャルリアリティー(仮想現実)」にひたるのに
どれほどの想像力が必要なのだろうか。

プラネタリウムも現実の星ではないが、天体観望の手だてとなり、
想像力をかき立てる点で決定的な違いがあると考える。

情報伝達手段が「話し言葉」「文字」「画像」「動画」とより高度になっていく過程で
足りない情報を補完する最大の手段だった想像力は必然的に衰えていく。

あたかも使わない筋肉が衰えていくことに似ていないだろうか。
想像力は、新しいものを生み出す原動力であるだけではない。

倫理の基盤をなす思いやりすら、他人の痛みを「想像」することでしか生み出されない。
一番想像力を鍛えなければいけない幼少時に、仮想現実が「ゲーム」という形で
無分別に供給されていくことに大きな懸念を抱いている。


プラネタリウム閉館の話から少し話を大きくしすぎたようだ。
どうも、山で一人星を見ていると、想像力が膨らみすぎていけない。


※ちょっと古いエッセイですみません。朝日新聞全国版「私の視点」掲載、学研「基礎小論文」に教材として掲載