【新説】「いろはの会」の語呂合わせ…!?(苦笑) | 愚ぁバ茶゙!

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コレまで、関西で使っていた掲示板『自由討論』への誘導に使ってましたケド、、、関東へ戻り昔の思い出が走馬灯のように蘇ってくる今日この頃につきHNも変更、最近の世相などをつらつら書き連ねていこうか!?と。〔表題は、何故か!?"グァバ茶"の文字列が浮かんで…〕





📖三浦伸昭:『黒南風(くろはえ)のうた』〔文芸社文庫;2014/09/15〕 ⇒ http://www.amazon.co.jp/%E9%BB%92%E5%8D%97%E9%A2%A8%E3%81%AE%E3%81%86%E3%81%9F-%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA%E3%81%A8%E8%9C%B7%E5%B7%9D%E9%81%93%E6%A8%99-%E4%B8%89%E6%B5%A6-%E4%BC%B8%E6%98%AD/dp/4286153606 👆


💻文芸社のサイト ⇒ http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-15360-5.jsp 👆


📝書評ブログ ⇒ http://www.j-cast.com/bookwatch/2014/09/02214781.html 👆


🎯久しぶりの"歴史"もの … ソレも、性懲りもなく"本能寺の変"に関わる新説(!?)について。

~"本能寺の変"の背後には、「いろはの会」という一種の和製"フリーメイソン"とも言うべき組織の影があった … とされているケド、、、

・い:(徳川)家康の"い"
・ろ:囲炉裏の字の如く主上(天皇)を囲む"公家衆"
・は:"秦氏"の末裔を自負する(長宗我部)元親

… という"語呂合わせ"を読み解くコトもできる!😉


🎯細川管領家と長宗我部家の関係〔↓下図↓〕



土佐国長岡郡に拠った国人の一族で、土佐国の七豪族(土佐七雄)の一つに数えられた。

戦国時代に入って勢力を広げ、長宗我部元親の代で他の豪族を討滅・臣従化して勢力を広げて戦国大名に成長し、土佐一条氏を滅ぼし土佐を統一する。その後も勢力を伸ばし、ほぼ四国統一まで漕ぎ着ける。しかしながら、羽柴秀吉四国征伐の前に敗れ、土佐一国に減封され豊臣政権に臣従する。その後は秀吉の下で九州征伐小田原征伐文禄・慶長の役と転戦する。

子・長宗我部盛親の代で関ヶ原の戦いに西軍として参戦・敗北し改易。その後、盛親が大坂の陣に大坂方に味方、敗死したことにより、嫡流は断絶した。他家に仕えるか帰農した長宗我部子孫が、現在に残っている。

戦国時代に入り、16代文兼の代では、応仁の乱の戦乱を逃れ一条教房土佐一条氏 初代)が土佐に下向している[10]。文兼は文明3年(1471年)、長子元門(17代)を追放しており、それがもとで吸江庵寺奉行を解任され、幾つかの領地も支配下から離れている[11]。元門はこの際に久武氏・中内氏を連れて武者修行に出て、伊勢国桑名にて桑名氏を家臣に加えた[11][12]。これら3氏は、のちに長宗我部氏の三家老に数えられる。文兼・元門の争乱は、元門の弟・雄親(18代)が家督を継ぐことで決着し、雄親は幾つかの寺の再興も行なっている。

応仁の乱以後、全国的に争乱が始まる。中央で大きな権力を持った本家の細川政元が暗殺(永正の錯乱)されたことで、土佐守護代の細川氏を含め各地の細川氏一族は京都に上る。これにより土佐もまた、守護による領国支配が終わって戦国時代を迎えることとなる。この時期の土佐国は、盟主的存在である土佐一条氏の下に、土佐七雄と呼ばれる長宗我部氏を含めた七国人が割拠していた。

【補足】

*至徳三年(1386)、土佐守護代として細川頼益が入部し、国人らは細川氏の被官に組込まれ守護支配が浸透していった。ときの長宗我部能重は、吸江庵の寺奉行として、また細川氏の有力被官として吉原庄全域を領有し勢力を拡大していった。

 十四世紀の末に南北朝の合一(1392)がなり、室町幕府体制が確立したが、それは新たな乱世の前のつかの間の平穏に過ぎなかった。十五世紀になると幕府と関東府との対立(永享の乱)が起り、足利将軍義教が恐怖政治を行った。嘉吉元年(1441)、義教は播磨守護赤松満祐に暗殺され(嘉吉の乱)、幕府は大きな動揺に見舞われた。このようにして、幕府の威勢は衰退の兆しをみせ、世の中に下剋上の風潮が広まっていった。以後、幕府内部では権力闘争が続き、将軍、守護大名たちの権威は次第に衰退を見せるようになった。そして、幕府管領家である畠山氏、斯波氏に家督をめぐる内訌が起り、さらに将軍家にも御家騒動が起った。それらが背景となって、幕府管領細川勝元と幕府の実力者山名持豊とが対立し、ついに応仁元年(1467)「応仁の乱」が勃発した。

 土佐守護代細川氏は勝元に味方して上洛し、土佐の国人領主らもこれに従って京に上った。応仁の乱のころに成立したという『見聞諸家紋』を見ると、長宗我部氏・安芸氏・大平氏らの家紋が収録され、かれらが東方として在京していたことが知られる。一方、守護細川氏が在京している間に、土佐における細川氏の権威は徐々に低下していった。守護領国体制の衰退により、土佐の国人領主らはそれぞれ自己の勢力拡大を企図して、互いに争うようになった。このようななかで、衰えたりとはいえ守護細川氏を後楯とした長宗我部氏が勢力を伸ばし、本山氏と長岡郡を両分して、土佐七族の雄に数えられるまでになった。

 このころ、応仁の乱の難を逃れて一条教房が土佐国幡多庄に下向してきた。ときの長宗我部氏の当主文兼は、一条氏を土佐の国司として仰ぎ、その下知のもと行動すれば争いは無くなると各豪族に提案した。豪族達もこの文兼の案に賛成し、土佐には一時の平穏が訪れた。 

~このように最も弱い勢力であった長宗我部氏は、19代兼序(兼序は法名。正式名は元秀)の時、岡豊城を追われ、一時滅亡する。その経緯には、諸説ある。いずれの説においても、戦乱で兼序の遺児千雄丸は城を脱出し、土佐一条氏のいる中村に落ち延びて保護されたとされる。

千雄丸は土佐一条氏当主一条房家の下で元服して長宗我部国親を名乗った。そして房家の配慮により永正15年(1518年)年岡豊城に帰還して長宗我部氏を復興、20代当主となる[11]。国親は本山氏と表向き手を結んだ上で、吉田氏と婚姻関係を結び地位の安定を図ると共に、近在の天竺氏・横山氏・山田氏ら周辺豪族を滅ぼし、勢力を拡張した。永禄3年(1560年)には本山氏に反旗を翻し長浜の戦いにて敗走させたが、同年病死した。

~国親の跡を継いだ21代長宗我部元親の時代に、長宗我部氏は最盛期を迎える。元親は父・国親の遺志を継いで永禄5年(1562年)本山氏を滅ぼし、同6年(1563年)には弟・親貞を吉良氏に入れ併合、同12年(1569年)には安芸氏を滅ぼしている。これまでの間香宗我部氏とは同盟関係にあったが、安芸氏の打倒後、弟・親泰が入嗣し、併合が行われた[13]。また、元亀2年(1571年)津野氏に3男の親忠が養子として入って併合を行った。このように他の六雄(大平氏は一条氏により滅亡)を支配した元親は、土佐一条氏の内乱に乗じ、追放された当主一条兼定に代わって天正2年(1574年)に兼定の子・一条内政大津城に入れ「大津御所」として傀儡化した。同3年(1575年)に一条兼定が侵攻した時には四万十川の戦いでこれを破り、一条氏の残存勢力を滅ぼして土佐国を完全に平定した。

その後、元親はさらに、白地城を拠点として伊予国阿波国讃岐国にも積極的に進出し、河野氏三好氏を駆逐していき、天正13年(1585年)四国をほぼ統一したとされる。但し、四国統一を達成したかどうかについては異論がある[14]。しかしながら、同年に行われた羽柴秀吉四国征伐に敗北し、土佐一国に減封される。その後は、九州征伐小田原征伐文禄・慶長の役と秀吉に従って転戦する。

慶長4年(1599年)に元親が死去、長宗我部盛親が22代当主となる。翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで盛親は当初東軍につこうとしたが、家康への密使を関所で留め置かれ、西軍に与する。本戦では実際の戦闘に参加しないまま西軍は敗戦し、戦後に津野親忠を殺害したことを咎められ、所領を没収されて改易となる(浦戸藩)。なお、盛親の家督継承の経緯などが問題視されたためか、元親の死後も豊臣政権は盛親の長宗我部氏家督と土佐支配の継承を正式には承認しないまま、関ヶ原の戦いを迎えたとする説もある[18]

~盛親は、慶長19年(1614年)~同20年(1615年)の大坂の役で豊臣方に与すが、豊臣方が敗れたため、盛親はもとより盛親の子らもすべて斬首され直系は絶えた。元親の甥・吉良親実(元親の弟・吉良親貞の子)の子孫は肥後藩に仕え、同じく香宗我部親泰の子・貞親堀田氏に仕えたとされるほか、傍系の一族は他家に仕えるか帰農して生きながらえた。この際、島姓等他の名字に改姓し、明治にいたって長宗我部姓に復した者も多い。

一説によると、元親が晩年伏見屋敷に暮らしているとき、一度だけ伽をさせられた婢女が子を孕み、生まれた子供がいたという。名を信九朗康豊といい、生母の実家で幼少期を百姓として過ごした後、滅亡した主家を再興すべく兄盛親が大坂城に入城したのに続き、大坂冬の陣、夏の陣と参陣した。大坂城落城後はつてを頼って駿河に落ち延び、その後しばらく経ってから酒井家に登用され、長宗我部家の血を続かせたと伝えている。

また、由井正雪の片腕といわれた丸橋忠弥(長宗我部盛澄)は、長宗我部盛親の子孫と称していた。また、幕末尊皇志士として徳島藩士の長宗我部太七郎がおり、生野の変に参加するも、文久3年(1863年10月14日但馬国山口村妙見堂にて自刃するという。没後、靖国神社に合祀される[19]

~昭和に入り、長宗我部元親の末弟で後に土佐藩士となった親房から15代目の当主の親(ちかし、秦霊華)が、長宗我部家の末裔として昭和天皇の勅使から元親の正三位への贈位書を賜ている。現当主は親の孫で17代目の友親。友親は共同通信社で常務幹事を務めた。友親は2010年土佐山内氏現当主山内豊功と共に尾崎正直高知県知事のもとへ表敬訪問を行っている[20]




🎯七つ酢漿草(七つハシバミ)の家紋〔↓下図↓〕

~長宗我部氏は秦の始皇帝を祖と称する秦氏の一族とされています。

応仁の乱で足利義政の元に参じた諸将を記録した1468~1470年頃の記録『見聞諸家紋』に、長宗我部氏の名が「丸に七つ酢漿草」という珍しい家紋とともに登場しています。

*"酢漿草"(かたばみ)はどこにでも繁殖する雑草ですが、
古代より神鏡を磨くために用いられるなど子孫繁栄だけではなく信仰的な意味も持つ家紋です。




🎯土佐の"姫和子":長宗我部元親公

~本著の"新説"(!?)から援用すれば、、、

①幼少の頃は"本の虫"…ただ、お蔭で古今東西の"有職故実"や『孫子』(の兵法)には精通していたらしい!👍

②正妻に、石谷"孫九郎"頼辰〔注:室町幕府・外様詰衆(親衛隊)〕の義妹:小夜を嫁取りし、ソノ副産物として、"石谷家"(美濃源氏)のみならず頼辰本家の"斎藤家"(美濃名門)との血縁を手に入れた!👍

③続いて、"斎藤家"の長女:久子を正妻に迎えていた蜷川新右衛門("道標")〔注:室町幕府・政所代〕を連歌の"宗匠"として土佐へ迎え入れ、「いろはの会」〔注:戦国時代・室町幕府末期の一種の"文化サークル"(近世の2ちゃんねる!?)〕のメンバーとして認められた!👍

④当時、「いろはの会」の中核メンバーとして、細川"兵部大輔"藤孝〔注:室町幕府・筆頭御供衆〕&明智"十兵衛"光秀〔注:室町幕府・奉行衆兼細川藤孝家臣〕に居たが、ココで"運命"の出会いをする!👍

⑤後に吸収・合併した土佐・一条家は、京の現関白:一条内基卿を本家とする"名家"であり、コレにより、京・公家衆の後ろ楯をさらに強化した!👍

⑥"一領具足"〔注:"兵農分離"に至らない、"ベンチャー企業"風の兵力動員システム…要は、国人(農民)参加型の"徴兵制"に近い。長宗我部家の秀逸なところは、"軍代"(査定・考課者)が至極厳密に軍功を評価し、恩賞(土地)をキメ細かく下賜したコトにある〕のシステムを徹底し、"文武両道"の領民教育に力を入れた!👍

⑦織田"右大臣"信長の天下統一間近には、"右府"(信長)の心変りをいち早く察知、連歌の"宗匠":蜷川"道標"新右衛門と共に、後に、"本能寺の変"を起こさせるべく、惟任"日向守"光秀に心理的刷り込み(マインド・コントロール!?)を図った…とされる!👍〔ココから先は、フィクションになるのだが、ソノ後の跡目相続争いの一貫で、"小牧・長久手の戦い"(羽柴秀吉・織田三法師連合軍 vs. 徳川家康・北畠信雄連合軍)が起きた際は、家康との"示し合わせ"に基づき東西から秀吉軍を挟撃する手筈だった…とも言われている。状況証拠としては、家康直筆の"恨み文書"が残っていたコトや、後に、"竹千代"〔注:三代将軍家光の幼名〕の乳母として、本能寺の変後に斬首された斎藤利三(明智光秀の腹心)の三女:福子(後の"春日の局")を迎えたコト、加えて、元親の連歌の宗匠:蜷川"道標"新右衛門は関ヶ原合戦後、1603(慶長八)年に家康が朝廷から"征夷大将軍"(源氏長者)に任じられた際には、"御伽衆"として召し抱えられている。改易された長宗我部家のお家再興は叶わなかったものの、幕末にはソノ土佐の後継大名となった山内家(山内容堂)が"明治維新"(薩長土肥)の原動力となり、カタチを変えて溜飲を下げたと言えなくもない…!?(苦笑)🎌〕




🎯"本能寺の変"~"関ヶ原合戦"~"元和偃武"~"大坂・冬&夏の陣"~"幕末:鳥羽・伏見合戦"~"大政奉還"~"明治維新" … へと連綿と続く東西対立の遺恨(!?)

~織田信長や豊臣秀吉などは確たる意識はなかったと思われるが、東海三州(尾州・遠州・駿州)の雄:徳川家康は、特に、秀吉による"小田原評定"での関東移封後、尊敬する"源頼朝"に倣い、関東に"独立政権"(幕府)を樹立する志向へと傾いていった。〔平安末期以来、"東夷"(あずまえびす)などと上方(京・大坂)から蔑まれていた関東の荒れ地を、江戸入城後に数度の天下普請を経て"一大穀倉地帯"に変貌させ、武家による武家のための天下泰平の国造りを目指した〕

~一方、明治維新の原動力となった"西国大名"(薩長土肥)たちは、なまじ"京"(朝廷)に近かった〔注:特に、四国の長宗我部氏は、阿波を攻略し四国を平定したら、毛利・九鬼水軍と連携しスグにでも京へと攻め上れる立地にあった〕ため、"関ヶ原合戦"では西軍に組み入れられてしまうという不運もあり、家康に代表される東軍と袂を分かつに至った。

~日本列島は、《東西に長く・南北に長い》という特異性を持った地形であり、実は、東北地方・北日本のほうが穀倉地帯だった…西日本のほうはどちらかと言えば海運(交易)地帯だった。ソレ故に、保守的(封建的) vs. 革新的(開進的)という対立が生まれやすい土壌が元々あった…と言えなくもないが。(苦笑)🗾