まじりけのない野生の大地に太古から捧げられてきた祈りと呪いは、ほふられた生け贄からしたたり落ちた血がしみこむように土に吸われ、そこに生きる、まつろわぬ民でいられなかった人びとが背負ったカルマを動かしたにちがいない。

 19世紀末、米国オクラホマ州北東部にある荒れ果てた岩だらけの居留地に追いやられていた先住民のオセージ族の人口は、70年前の3分の1、約3千人にまで落ちこんでいた。

 バッファロー狩りを得意とする高潔な戦士の部族だったオセージ族は、大統領命令によって、もともと住み着いていた広大な土地から追い立てられ、不本意な強制移住を繰り返させられたからである。

 ところが、部族の悲運は、最後にたどり着いたオクラホマの地の底で、ひそかに逆転していた。

 合衆国最大の油層が埋蔵されていたのだ。

 

 

 

 石油採掘業者と仕事にあぶれた労働者、ひと儲けをたくらむアウトローが群がるオイルラッシュの狂乱がすぐさま巻き起こり、めくるめく錬金術のイリュージョンが町ぐるみで繰り広げられているかのように莫大なオイルマネーが流れこんだ。

 それは同時に、そこらじゅうに忌まわしい陰謀と悲劇の胞子がばらまかれる、悪意の拡散の始まりでもあった。

 禁酒法が施行されていた1920年代、オセージ族が素朴な詩情をこめて「花殺しの月(フラワー・キリング・ムーン)」と呼んでいた5月に、ふたりの部族民が相次いで射殺されたのを発端として、露見しただけでも、オセージ族とその関係者24人が亡き者にされる連続怪死事件が起きた。

 映画は、当時、「オセージの恐怖時代」と新聞に書きたてられた、この実話のサスペンスを、強欲な首謀者に支配され、妻となったオセージ族の女性まで、愛していながら毒殺しようとした気弱な白人男性、アーネスト・バークハート(レオナルド・ディカプリオ)の揺れ動く心理を足場にして描いている。

 

 

 

 

 この怪事件は言うまでもなく、オセージ族が、はからずもオイルマネーのおかげで全米でもトップクラスの富裕層に成りあがってしまったミラクルの、おぞましい結末だった。

 地主のオセージ族が大金をつかんだ仕組みは、映画では言葉足らずでわかりにくいが、ジャーナリストのデイヴィット・クランが手がけた原作本のノンフィクション『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン オセージ族連続怪死事件とFBIの誕生』によると、つまりはこういうことだ。

 オセージ族は、居留地としてオクラホマの土地が割り当てられる際の連邦政府との交渉で、地下に埋蔵されている石油、石炭などの鉱物資源の所有権を手に入れていた。

 そのため、石油を採掘するには、土地のリース料とロイヤルティーをオセージ族に支払わなければならなかった。

 その総額は20世紀初頭に年々はね上がり、1923年には単年で、いまの金銭価値に換算すると4億ドル(約600億円)に相当する3000万ドルがオセージ族の懐に入ったという。

 鉱物資源の収益にあずかる権利は部族民に頭割りで分配された(均等受益権)ので、彼らはこぞって豪邸を建て、高級車をとっかえひっかえ乗りまわし、貧しい白人を使用人に雇っていた。

 

 

 

 だが、白人たちは、ほんのひと昔前まで平原のテント小屋に暮らし、大地の精霊に感応し、銃よりも弓矢で獲物をしとめる狩りに明け暮れていた先住民が、あたかも由緒ある王侯貴族に生まれ変わったような特権を手に入れて大富豪にのしあがってゆくのを、おめおめと黙って見過ごすはずがなかった。

 彼らのねたみそねみを奇術のように消してしまう法的な手段として考えだされたのが、先住民の資産を管理する後見人制度だっ た。

 経済行為に関しては「無能力者」ときめつけられたオセージ族は、白人の資産後見人を選任することが義務づけられ、大金を持ちながら自由に使えなくなってしまったのだ。

 しかも後見人とは名ばかりで、善人をよそおって、しかつめらしく倹約を説きながら、陰では、ありとあらゆる手口でオセージ族の資産をかすめとり、わるびれるふうもなく私腹を肥やしていたのである。

 

 

 

 

 それだけ、ではない。

 人種差別に拍車をかけられた、強欲の侵略は、とどまるところを知らなかった。

 アーネスト・バークハートのようにオセージ族の女性をめとった白人男性は、万が一、妻が早死にしたときに自分の身に起こることを想像しないはずがなかった。

 石油の富を公平に分配する均等受益権は、他人への売買や譲渡を禁じられていたが、部族民が死去したときは、相続によって遺族に引き継がれる決まりになっていた。

 妻が亡くなれば、その権利は当然、夫に転がりこんでくる。自分は白人だから、後見人に邪魔されたり、だまし取られたりすることなく、好き放題に浪費できるじゃないかと。

 こんな腐敗した悪夢から産み落とされた鬼子のような動機と冷酷無比な計略が組み合わさり、オセージ族の連続殺人に歯止めがかからなくなった。

 

 

 

 その謀議の中心にいたのが、アーネストのおじにあたるウイリアム・ヘイル(ロバート・デ・ニーロ)だ。

 もともと無一物で素性の知れない流れ者だったヘイルは、持って生まれた生命力の強さが半端ではなかったようで、オセージ族の居留地(オセージ郡)にやって来ると一心不乱に働き、畜牛業でひと財産を築いて大牧場主に成りあがった人物だった。

 政界にも顔が利き、名誉職とはいえ保安官補に任命された町の大立者で、オセージ族からの信頼も篤かったという。

 しかし、表向きの評判とは裏腹に、この男こそ容赦なく先住民を捕食する天敵のような存在で、石油利権も牛耳って、だれも歯むかえない「王」になろうとした男だったのだ。

 

 

 

 映画では、オセージ郡で居場所を与えてくれた邪悪な王の言いなりになりパシリも同然だったアーネストが追いこまれてゆくアンビバレントな心模様を軸に事件の成りゆきが物語られる。

 オセージ族の女性、モリー(リリー・グラッドストーン。先住民女性で初めてアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた)と夫婦になったのは、おじのヘイルにけしかけられてその気になったのが発端ではあったが、財産に目がくらんだわけではなく、相思相愛になって結ばれている。

 ふたりは深く愛しあい、3人の子をもうけていた。

 それなのに、糖尿病を患っていたモリーに弱い毒入りのインスリンを注射するようにヘイルから命じられると拒めず、緩慢な殺人の共犯者になってしまう。

 家族を愛するがゆえに魂を引き裂かれたアーネストは、壊れかけていた良心にすがりついて我に返り、裁きを待つ身になった。

 石油は、年かさの思慮深いオセージ族からみれば、大地の恵みではなく、呪われた天啓にほかならなかった。

 彼らが果たして、天と地のふところに抱かれ、ありのままの自然と心をかよわせられるつつましい民といえるのか、試されたのだ。

 油田は枯れ、栄えた町もいまや、ゴーストタウンと化している。

 

 

 

 

《2023年/米国/原作:デイヴィッド・クラン/監督:マーティン・スコセッシ/脚本:エリック・ロス、マーティン・スコセッシ/音楽:ロビー・ロバートソン/撮影:ロドリゴ・プリエト/出演:レオナルド・ディカプリオ、ロバート・デ・ニーロ、リリー・グラッドストーン、ジェシー・プレモンス、ブレンダン・フレイザー、ジョン・リスゴー》