アウトレイジチックなキャスティングで、荒木村重の謀反に始まり本能寺の変にいたる戦国ノワール絵巻のような北野映画なのだが、空気の抜けかけた風船を、もったいをつけて手渡されたような、いわく言いがたい頼りなさにつきまとわれてしまう。

 ありきたりの物足りなさとは違う、満ちたりることのないもどかしさ。

 コピーを繰りかえしすぎて劣化が始まりかけたフィルムの、ところどころ粒子の粗い映像を眺めているときの、確かな手ごたえのなさが、かすかに耳の奥底でうなり続けるノイズのように意識を集中させまいとするのだ。

 「キタノブルー」と称えられる、死そのものが発色しているような、静謐の青みが北野映画に特有の色調であることは広く知られているが、ドラマの語り口にも、ブルーな「間(ま)」がある。

 

 

 

 時間が不意打ちをくらって雷撃を浴び、つかのま息の根を止められて静止する、青ざめた間隙が、不規則な周期で稲妻がひらめくように、時系列にはさみこまれる。

 それが、監督が編集も手がける北野映画の独特のリズムを形づくっていたのだが、「首」には、見慣れてくると癖になる、時間そのものが臨死体験するような、その「間」が、ほとんど見当たらなかったのだ。

 ひとつの言語体系の単語をそのままに、文法の基礎だけ予告もなく改変されてしまったかのような、腑に落ちない後味を感じさせられたのは、噂に聞く、この映画の成り立ちのこみいった事情にかかわりがあるのだろうか。

 KADOKAWAが製作費15億円を全額出資している本作は、週刊誌報道によると、2021年秋にクランクアップして編集にとりかかった最終段階になってもKADOKAWAと監督や一部のスタッフの間で条件面の合意ができず、正式な契約が結ばれていなかったらしい。

 その行き違いが解消されないまま編集作業がとどこおり、一時はお蔵入りかと危ぶまれたという。

 最後まで製作サイドと呼吸を合わせられなかったことが、作品の完成度に悪しき影響をおよぼした可能性もなくはない。

 あるいは、シンプルに監督自身の「老化」によって、こだわりの美学に万物を引きよせてきたクリエイティブな磁場が弱まってしまったのか。

 そうも思わせられたのは、出来栄えについていえば、めっきり足腰の衰えた老人が高性能のパワードスーツを装着したときの身のこなしのような、不可解な手際のよさを感じとってしまったからだ。

 

 

 

 本能寺の変でクライマックスを迎えるストーリーは、戦国時代最大のミステリーとされるクーデターの真相について、かつて時代小説作家の柴田錬三郎らも唱えていた「羽柴秀吉黒幕説」を採用している。

 目論見どおりに明智光秀を非道の反逆者として討伐した秀吉は、武士の論功行賞の証となる光秀の首級を死に物狂いで探し求める戦場の狂騒を目のあたりにしながら、農民から成りあがった出自の者らしく、「首なんて、どうでもいいんだよ!」と吐き捨てる。

 そこに、切り落とされた首に権威主義の虚構を重ね合わせるニヒリズムがテーマとして打ち出されていて、タイトルが「首」になった理由もわかる。

 もうひとつ、暴力とともにアクセントとなっているのが男色の絆だ。

 

 

 

 

 信長を裏切った家臣、荒木村重は捕らえられ、いったん身柄は光秀に引き渡される。だが、光秀は独断で村重を匿い、生かしておく。

 ふたりは愛欲でたがいを求め合い、閨をともにする仲だったのである。

 一方で光秀は、主君、織田信長の、愛する者をいたぶらずにはおれない加虐の寵愛に身も心もささげていて、内面のアンビヴァレントな緊張に苦悶する。

 このあたりの赤裸々な描写には、様式美のきれいごとでごまかされている、月並みな時代劇に毒づいているようだ。

 ようするに、切断された首と半開きのアナルへの、癖のある思い入れにあふれた映画。全編に漂う得体の知れない煮えきらない感さえなかったら、頸動脈から噴き出した血と、肛門の皺にこびりついた糞カスとザーメンを秘伝の比率でブレンドした禁断のカクテルを一気呑みしたように、胸騒ぎがおさまらなくなっただろう。

 

 

 

《2023年/KADOKAWA/原作・監督・脚本・編集:北野武/撮影:浜田毅/照明:髙屋齋/美術:瀨下幸治/音楽:岩代太郎/衣裳:黒澤和子/出演:ビートたけし、西島秀俊、加瀬亮、浅野忠信、大森南朋、中村獅童、小林薫、岸部一徳、遠藤憲一、勝村政信、寺島進、木村祐一、桐谷健太、六平直政、荒川良々、大竹まこと、寛一郎》